(3)は、必ずしも音程を伴っていないけど、言葉を伝えている(注3)。これはとっくに、音楽を構成することを許された声です。ラップ(注4)がそうですよね。あるいは、音楽に乗せたポエトリー・リーディングもこれに当たります。

 そして(4)です。この表の中では、もっとも音楽から疎外された声と言えるでしょう。メロディもないし言葉を伝えているようでもない声。

 では考えてください。「ウェッ」はこの4つのどれに当たりますか? (4)ですよね。この意味において、米津玄師は、疎外された声を音楽に持ち込もうとしているわけです。

 さらに加えて言いたいのは、「砂の惑星」「ドーナツホール」イントロにあった、なにを言っているかわからない声についてです。

 ポイントは、これが「言語伝達的かどうか」はイエスともノーとも言えないことです。えずきやうめき声なら、言葉をなにも言っていないことがわかる。それがわかるから怖くない。しかしこの「なにか言っているようでもあるけど言っていないかもしれない、わからない」という声は、えずきよりもずっと「怖い声」ではないでしょうか。

 

 言語伝達的かどうかという二分法の、あいだにあるとも言えるし、二分法からこぼれ落ちてしまう声(注5)。フライングになりますがあえてこの時点で言っておくなら、それは「クィアな声」と言いうるものです。クィアという用語は、現代ではもっぱらセクシュアリティの議論において用いられるものですが、端的には「二項対立に収まらず、それを解体する様態」を示します。

 このように、米津玄師は「音楽に使う声はここからここまで」と世の中が通念的に設定している範疇を軽く乗り越えて、あるいはその範疇を自明とせず無視しながら、さまざまな声に対して音楽となる機会を開放しているのです。

注1 1オクターヴを12音の半音で構成するとしたときに、中心音(トーナルセンター)と、それに関係づけられた従属音とを選び抜いたもの。たとえば長調(いわゆるドレミファソラシド)は、ドを中心とする代表的な調性のひとつ。この場合、12音のうち5音を阻害しているとも言える。調性は西洋音楽の根幹的概念である。

2022.07.19(火)
文=鮎川ぱて