それに加え、動画の中に、こういうイラストがサブリミナルのように一瞬だけ挿入されます。みなさんの動体視力はこれを捕らえられたでしょうか?
解釈によって見え方は変わりますが、女性が下を向いて、嘔吐(おうと)しているかのようなシーンです。慟どう哭こくしているかのようでもありますが。
吐き気を催しているかのような声。それは聴いて気持ちのいい声ではありませんし、こちらに吐き気を催させるような声でもあるでしょう。さらには、この「嘔吐」というモチーフは視覚的にもさまざまな作品で反復されているわけです。
歌詞においてもそうです。受講生のひとりが以前作ってくれた米津玄師楽曲の歌詞に出てくる「吐く、嘔吐」の表を見てみましょう。(画像を参照)
このように、歌詞の中でも嘔吐というモチーフは何度も反復されています。音声、映像、歌詞と、その時々によって顕れる次元を変えながら、米津玄師の表現には嘔吐というモチーフが長らくついて回っているのです。
音楽から疎外された声、クィアな声
さて、本講義は、ボーカロイド音楽の本質、さらには、そのことを通して「うた」の本質に迫ることを目標としています。シラバスには「永きにわたった人類による「うた」の私有が終わった」と端的に書きました。これはボカロの登場を踏まえた書き方ではあるんですが、ここで、みなさんに少し考えてみてほしいと思います。
そもそも、あらゆる人の声が、音楽になることを許されてきたでしょうか? 「うた」であることは、多様な声の中でも、一部の声に独占されてきてはいないでしょうか?
ではどんな声が「うた」とされてきたでしょうか。ここで、ふたつの条件によって声を4種類に整理してみましょう。(画像を参照)
ひとつの条件は、メロディを歌っているのが明らかであるかどうか。調性内的かどうか。
もうひとつの条件は、言葉を伝えているかどうか。言語伝達的かどうかです。
(1)は、メロディも歌詞も明瞭な声。もっともわかりやすく「歌声」と公認される声でしょう。(2)もよく音楽に登場します。ラララ、ルルルというハミングなど、コーラスにはよくありますよね。歌詞が伴っていることは必ずしも「うた」の条件ではない。
2022.07.19(火)
文=鮎川ぱて