――移住されるにあたって、「台湾でこれがしたい」というものは何かあったんでしょうか?

藤岡 まず中国語が一切喋れなかったので、その段階では何がしたいとかは考えられなかったですね。ただ、台湾でもできれば芸能の仕事をしたいという思いはあったので、移住前の1年間は、2~3ヶ月ごとに台湾を訪問しては日本からの少ないつてを頼りに、芸能の仕事について相談していました。

 すると、一様にまず言われるのは「言葉だね」と。日本でも語学学校に数回通ってはみましたが、日本で中国語を学ぼうとすると授業料がすごく高かったり、あとは台湾中国語を学べる教室が当時は少なかったりして。なので、これは行っちゃった方が早いなと思いました。

台湾での仕事はどう始まった?

――そこから、現地でのお仕事はどのように始めていかれたんでしょうか?

藤岡 言葉が喋れなくてもできる仕事なら、とにかく何でも良いので、チャレンジしますと周りの人にお願いしました。失うものが何もなかったので、何でもしますと。

 すると、ラッキーなことに、現地に着いて3、4日後ぐらいに、とある女性監督が台湾の観光局の短編フィルムを撮るために、日本人女性を探してると。「もし興味があれば監督を紹介しますけど、どうします?」と言われたので、「やります!」って(笑)。

――それが、台湾での最初のお仕事だったんですね。

藤岡 はい。その後は現地のダンススクールに通ったり、アクションの練習に参加したりしたんですが、そこで知り合った方が、ピンチヒッターでダンスのショーに出てくれないかと声をかけてくれて。

 そこから色々と繋がって、中国武術のパフォーマンスショーに出演したり、ゲームのモーションキャプチャーでアクションを担当させてもらったりするようになりました。

――もともと日本でもアクションはやっていたんですか?

藤岡 いえ、台湾に行ってからです。日本ではほとんど運動すらしてなかったので、ヒョロヒョロでした。

2022.06.02(木)
文=松永 怜
撮影=釜谷洋史/文藝春秋