以上のような、「即位後朝見の儀」における天皇の「おことば」を含めた即位直後の一連の言動は、メディアを含めて国民から高く評価された。皇室が変化したとの印象を人々に与え、「開かれた皇室」とも呼ばれた。

 

2、雲仙普賢岳噴火:皇太子と天皇、与えた“インパクトの差”

 ターニングポイントの第二は、1991年7月の長崎県雲仙普賢岳噴火に対する被災者への見舞だろう。

 前年から起きていた被害に対し、平成の天皇・皇后は大きな関心を寄せた。そして、被災者への見舞のための訪問が決定する。未だ被害が収まっていないなかで、天皇・皇后が被災地を訪問するのは異例であり、それだけ本人たちの強い意思があったからではないか。

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 しかも本人たちの意思で、奉迎行事などは行われず、極めて簡素な形で訪問が実施された。それは、被災地へ迷惑をかけたくないという思いからだっただろう。ここにも、「国民とともにある」という意思が見える。

 この被災地訪問では、天皇・皇后は仮設住宅や避難所を訪れ、被災者と目を合わせ、一人一人に声をかけた。天皇が床に膝をついて、被災者と同じ視線で話す。このことは皇太子時代の1986年伊豆大島三原山噴火に際して避難した被災者を見舞った時にもあったが、やはり天皇という存在がしたことのインパクトは大きかった。

 その後、天皇・皇后は頻発する自然災害の被災地を積極的に訪問し、被災者たちに声をかけた。時に手を握り、目を合わせ、一人一人と会話をする。天皇・皇后はそこで苦しみを分かち合い、被災者を励ました。その姿勢がいわゆる「平成流」の一つの柱になっていく。

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3、美智子皇后バッシング:「皇室を変えていく存在」と“反動”

 しかし、こうした方向性は必ずしもすべての人々に歓迎されていたわけではなかった。天皇の権威を損ねるという立場からの批判である。ターニングポイントの第三は、こうした批判に起因する1993年の美智子皇后バッシングである。

2022.05.14(土)
文=河西秀哉