この年、6月に皇太子徳仁親王と雅子皇太子妃との結婚の儀が行われ、美智子皇后に続く二代続けての民間出身の皇太子妃が誕生した。この結婚において、真偽はともかく、美智子皇后が雅子妃決定を後押ししたと週刊誌を中心としたメディアでは報道されていた。つまり、皇室をこれまで以上により変えていく存在と皇后は見られたのである。
ところが、こうした姿勢は、皇室を権威と考える人々からの反感を呼ぶことになる。『宝島30』に大内糺という仮名の宮内庁職員による「皇室の危機」と題する文章が掲載され、主に美智子皇后の言動に対する批判が展開されるようになる。
他にも、『週刊文春』などには美智子皇后を批判するような記事が数多く掲載された。当時の空気感として、「開かれた皇室」に対する反対意見をもつ人々にとっては、その方向性を止めさせようとするうえで、天皇への直接の批判よりも美智子皇后バッシングのほうがとりやすい選択肢だったのだろう。それに、皇室を消費的に扱うメディアが合わさり、こうした流れが形成されたのではないか。
この美智子皇后バッシングは皇后がそれに起因した失声症になることで止むが、皇族をメディアがこれほどまでにバッシングすることは昭和の時代にはあまりなかった。皇室が近くなったと見られたことで、展開されるようになったのだろうか。
その後の、雅子皇太子妃の病気療養に対するバッシング、秋篠宮家の眞子内親王の結婚をめぐるバッシングなど、皇室報道が変容するターニングポイントが美智子皇后へのバッシングであった。
4、サイパン島訪問:異例の訪問を生んだ「戦争と平成の天皇」
第四のターニングポイントは、2005年6月のサイパン島訪問であろう。これはいわゆる「平成流」のもう一つの柱である、戦争の記憶への取り組みという問題である。
これもすでに皇太子時代から、昭和天皇の代理として外国訪問をするなかで、訪問国における戦争の記憶に触れるなど、その問題には取り組んでいた。天皇即位後、1995年の戦後50年にも長崎・広島、沖縄、そして東京大空襲で亡くなった人々の遺骨が納められた東京都慰霊堂などを相次いで訪問し、慰霊の旅を続けていく。記者会見でも戦争に関する言及が増加した。
2022.05.14(土)
文=河西秀哉