2021年春、菓子研究家の長田佳子さんが東京から山梨県甲州市塩山に居を移し、新しい暮らしを手探りするうちに4つの季節が過ぎていった。

 活動名の「フードレメディ」の「レメディ」は、“癒やし”“治療”などの意味を持つ。体に負担のない素材を選び、美味しくて心身の癒やしに繋がるお菓子をつくりたい。そう考える長田さんが「材料の生産地のそばで暮らしたい」「自分で材料を育てたい」と田舎暮らしを考えるようになったのは、ごく自然な流れだったに違いない。


すべてが手探りの新生活

 養蜂に興味をもち、移住も考えながら長く長野県に通っていたけれど、家探しは予想外に難航。その帰り道に立ち寄ったのが、すでに友人が移住することが決まっていた山梨だった。

 不思議な縁で結ばれて、するすると住む家も借りる畑も決まり、東京の住まいを引き払ったのは昨年4月のこと。「かなり見切り発車だった」と長田さんは振り返る。

「当初は知り合いも少なく、家と畑の往復で土ばかりを眺める日々。慣れない農作業で体も心もヘトヘトに疲れていました。借りた畑にどんな作物が合うか分からず、いろんな苗を買って手当たり次第に植えて。気温が上がるにつれ、少しずつ収穫が始まると、採れた野菜やハーブが信じられないくらい美味しくて。ようやく、『この土地にちょっと受け入れられたかな』という気持ちになれました」

 穏やかな語り口とゆったりとした佇まい。長田さんの印象はどこまでも柔和なのに、この一年の歩みは怒濤だ。移住して半年後には、かつてワイン貯蔵庫だったという倉庫にアトリエ「SALT and CAKE」をオープン。大まかな設計・施工はプロの力を借りたものの、壁塗りや什器の塗装など多くの作業でDIYを敢行。

 完成後は月に一度のオープンデーを設け、地元の果樹農家の果実を用いたお菓子や、自分で育てたハーブのお茶の提供も行っている。都内に住む友人たちだけでなく山梨の人々も、「面白そうな場所ができたね」と足を運んでくれるようになった、と顔をほころばせる。

 東京に住んでいるときは、自分が店のような場所を構えることは考えられなかったという長田さん。自宅とアトリエ、夫の仕事場、畑の賃料を合わせてもまかなえるのは、家賃が安い地方だからこそ。

「引っ越し当初は家と畑の往復の日々でした。それが、アトリエを持つことで人間関係がぐんと広がったんです。素敵な人が、素敵な人と繋いでくれる。山梨の人たちは世話好きで包容力がある方が多く、それでいて押し付けがなく、距離感がほど良い。『いつかあの人と会えるといいね』と話していた人と、絶妙なタイミングで出会えることが続きました」

前に進めば、出会いが来る

 畑やアトリエの作業で体を酷使することが多くなり、アトリエそばの「はやぶさ温泉」は駆け込み寺のような存在に。泉質の良さだけでなく、料理の美味しさにも気づいてからは、定食屋さん代わりに、日参するようになったとか。

「まだ知り合いが少ないなか、いつも『お帰り、お疲れさま』『今日はどうだった?』と声をかけてくれて、まるで実家のようで癒やされました(笑)。冬の朝はとにかく寒かったので、朝に温泉に行ってから『さあ仕事!』ということも」

 作業がなかなかうまくいかず落ち込む日も、ここでばったり会った人と話すうちに、自然と気持ちが上向くこともあったという。体と一緒に気持ちもほぐれ、街中で会うのとは違った親密感が生まれる空間だったのだろう。

「ワイン醸造をされている金井一郎さん・祐子さん夫妻は『いつかお会いしてみたいな~』と思っていたお二人。すごく嬉しかったし、紹介してくれたお寿司屋さんも大好きになって、そこからまた人との出会いが広がって」

 日本では“ビオワイン”の存在がほとんど知られていなかった1998年から有機栽培でぶどうを育て、2004年からは野生酵母による醸造を行い、山梨の風土をそのまま詰め込んだかのようなワイン造りをする金井さん。口に含むと「ワインが生きている」と実感され、体中にそのパワーが染みわたるような味わいだ。

 「自分が暮らす土地で育った材料で、人を癒やすお菓子をつくりたい」と考える長田さんにとっては、二人は道は違えど先生のような存在となった。

Their seeds

心と体に染み込むお菓子をつくりたくて土のある場所へ


アトリエで過ごす日のTime Schedule

●8:00 起床、体調によって朝の飲み物を選ぶ
●9:00 洗濯、掃除、デスクワーク
●11:00 昼食
●12:00 アトリエへ。試作や仕込み
●18:30 夕食
●20:00 温泉
●21:30 家事、デスクワーク
●24:00 就寝

2022.04.11(月)
Text=Noriko Tanaka
Photographs=Nao Shimizu

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※この記事のデータは雑誌発売時のものであり、現在では異なる場合があります。

この記事の掲載号

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