──それ以来、さくらさんとは頻繁に交流されていたんですか。

TARAKO おうちに呼んでいただいたり、ごはんもご一緒することは何回かあったけど、ふたりで会うってことはなかったです。ももこちゃんの周りの人はみんなももこちゃんと話したがりますから、私は見てるほうがうれしかったのかなあ。私たちが喋ってると、周りに「どっちが喋ってるのかわからない」って言われました。ももこちゃんと話した内容ってじつは全然覚えてないんです。話せるってことに舞い上がっちゃってたんでしょうね。

 

1990年と91年は私にとっては別世界。記憶にない年です

──いまや国民的アニメの『ちびまる子ちゃん』ですが、作品の人気が出はじめたのっていつごろからだったんでしょうか。

TARAKO 始まって4~5ヶ月経ってからだったかな。いまだから言えるんですけど、当初はスタッフの間でも「たぶんワンクールで終わるよね」なんて囁かれてたんですよ。私も最初はこんな変な絵の……いや、そんなこと言ったら失礼なんですけど(笑)、平面的な絵の漫画がよくアニメになったなあって思ってました。

 浅野ゆう子さんが、ドラマのなかで『おどるポンポコリン』を口ずさんだのがヒットのきっかけって説があるんですけど、どうなのかな。夏には人気に火がついて、私も「まる子」役ってだけで、声以外のお仕事がワーッと増えちゃったんです。バラエティのほかにも、ドラマとか映画まで出させていただいて……当時、宜保愛子さんにまでお会いしたりしたんです(笑)。まさか声優やってて霊能者の方に会うと思わないじゃないですか。

――一気に大スターになられたんですね。

TARAKO すごかったです、当時。休みがないのは当たり前で、ひどいときは点滴打ちながら仕事したりして……だんだん、家に帰ると自分が自分じゃないみたいで、ボーッとしたまま眠るっていうのが何ヶ月も続きましたね。1990年と91年は、私にとっては別世界。記憶にない年です。目の前にとんねるずさんとか宮沢りえさんとか大スターがボコンボコンいて、私、ただの声優ですよってずっと思ってました。うちなんてびんぼう事務所でしたから、みんなもパニックだったと思いますよ。衣装担当がいないのに着回す服が足りなくなっちゃって、社長の奥様がテレビ用のお洋服を縫ってくれたりしたこともあります。

2021.07.11(日)
文=生湯葉 シホ