上演中の『泥棒と若殿』で実感した人の温もり
そんな巳之助さんが、現在歌舞伎座で上演中の『泥棒と若殿』で演じているのは、家督相続争いによって荒れ果てた屋敷に幽閉されている若殿の松平成信。食べ物も満足に得ることができず、いつ敵方の奇襲があるかもわからない中で日々を過ごしている人物です。
人生を達観し餓死をも受け入れようとしていたところで成信が出会うのは、屋敷に侵入した泥棒の伝九郎。伝九郎もまた人生の荒波のなかで不遇な日々を送って来た人物で、初めて盗みに入った家で出会った成信と心を通わせることになってゆくのです。
「命の危機にさらされながらたったひとりで閉じ込められるなどと、コロナ以前は多くの人にとって現実的なものではありませんでした。ところが今はそうではありません。そんな中でふたりが出会い、互いの温もりを感じながらそれぞれの心が解けていく。人と人が触れ合い心を通わせることの大切さを改めて実感させられます」
山本周五郎の小説を歌舞伎化した物語はほぼふたり芝居で進行。伝九郎を演じる尾上松緑さんとの何気ないやりとりが心に響く秀作なのですが、多くの人が抱いているであろう、例えば隈取や見得などに象徴される歌舞伎のイメージとはかなりギャップがあります。もっと小さな劇場で歌舞伎ではない俳優さんが演じても成立する内容でもあります。こうした作品を歌舞伎として演じるには、どのようなことを意識されているのでしょうか。
「非常に難しい質問です。そういうことを意識した時点で嘘になってしまうというか……。ただ言えることは、歌舞伎座のような大きな空間で、白塗り(の化粧)をして成信はこういう姿かたちの人間なのだと堂々と出ていけるのは歌舞伎役者だからこそ、だと思います」
冷静で観察眼の鋭い成信の視点での客観的な描写から始まる原作の味わいを、巳之助さんは歌舞伎座で歌舞伎俳優としてナチュラルに体現しています。それは『ワンピース』や『NARUTO』、『風の谷のナウシカ』など、歌舞伎ファンを超えて多くの人を魅了した作品において巳之助さんが演じたどの役とも趣が異なります。
2021.02.14(日)
文=清水まり