役所広司さんの緻密な役作り

 今回の映画で主人公の元殺人犯・三上を演じているのは役所広司さんです。役所さんは、私にとっては原点ともいえる、少し特別なところに位置する俳優でした。『実録犯罪史シリーズ 恐怖の二十四時間 連続殺人鬼 西口彰の最期』という私が17歳のときに観たドラマの主役が役所さんだったのです。

 西口彰という犯罪者は、佐木さんが直木賞を受賞した小説『復讐するは我にあり』でモデルにしたのと同じ人物です。人間の心のなかに巣くう、得体のしれないものを役所さんが見事に演じ切られているのを観たとき、「私もまた、将来人間のわからなさを描いていくのだ」という確かな気持ちに包まれました。役所さんのあの演技がなければ、私の進路は変わっていたかもしれないとすら思います。

『スクリーンが待っている』(小学館)
『スクリーンが待っている』(小学館)

 そんな経緯があったから、「時が来た」と、役所さんに今回は満を持して出演をお願いしたのです。脚本を渡したあと、セリフについてふたりで交わしたやり取りも、この本にはつぶさに書いています。脚本を広げながら、役所さんが一言一言の言い回しの確認をされたときのことです。

 それはたとえば、「当時で30万円しました」を「当時30万しました」にしていいか、というような細かいものもあり、私は「てにをは」など一言一句変えてはならないという主義の脚本家ではないので、そんなふうにわざわざ断りを入れられるとは、と驚きました。

変幻自在で一切のミスもない

 一方で、「そこを削ってしまうのか」と、自分が大事にしていた台詞に意見されることもあり、そういう言葉を選んでいた自身の力量が不安になるところもありました。私は『身分帳』という小説に誰よりのめり込んでいたので、佐木さんが書いた言い回しを最良だと思い込んでいた部分もたくさんあったのです。でも、役所さんは自らの肉体を通してセリフを言う俳優の立場から、生きた言葉として「なにか違う」と思われたのでしょう。

 そういう違和感を役所さんが撮影前に誠実に伝えてくださったおかげで、小説の中の主人公から映画ならではのキャラクターを独立させてもらったと思いますし、小説に書かれた台詞がいかに読み言葉として魅力的でも、それを映画にそのまま流し込めばいいというものじゃないぞということを改めて教えてもらった時間でした。

 役所さんとのセリフ確認は大変にシビアで、はぐらかしのきかない真剣な時間でしたけれど、現場では一切のミスもないですし、まさに約束通り。こちらが思いつきで何かを要求しても、全て受け入れてもらえますし、付け足すことも、差し引くことも、変幻自在。真っすぐも変化球も、いくら投げても球威も落ちない。役所広司という俳優のすごさを改めて感じた瞬間でした。

 映画を作るにあたっては、3年にわたり綿密にリサーチを重ねました。原案の『身分帳』は昭和の終わり頃に書かれたものなので、いまの時代との相違点も多い。システムや法整備、刑務所を出た人たちのその後、それらが現在ではどうなっているか、ひとつひとつを検証していくような作業でした。

 この物語の主人公である山川一、映画では三上という名のモデルとなった実在の人物はすでに亡くなっていますが、彼と生前かかわりのあった方たちに会い、北海道の旭川刑務所も訪ねました。

2021.01.26(火)
取材・構成=鳥海美奈子
撮影=五十嵐美弥