いざ、灯台の内部へ!!

 新高岡駅で新幹線を降り、レンタカーに乗り込む。空には分厚い雲が垂れ込め、立山連峰や白山といった山々を覆っていた。

 市街地を抜け、海に近づいていくと、「早期復興」というような言葉を謳った幟や垂れ幕が散見されるようになってきた。能登の震災はこの辺りにも深い爪痕を残したのだ。住宅が密集したエリアのそこかしこで道路工事が行われている。それもまた、復興の一環なのだろうか。

 住宅街を抜けるといきなり海が現れ、狭い急坂を登っていくと、岩崎ノ鼻灯台が現れた。

 なんともまあ、可愛らしい灯台だ。周囲にある樹木は桜だろうか。桜が満開になれば、それはそれは美しい景色になるのだろう。

 浦河の灯台は周りに緑などなかった。本州にはこういう灯台が多いのだろうか。

 しばらく灯台の周りを観察していると、やがて海上保安庁伏木海上保安部の方々がやって来た。

 灯台の説明を担当してくれた星野宏和(ほしのひろかず)さんは、制服制帽をきちんと着こなし、笑顔の絶えない方だった。灯台への愛がびんびんと伝わってくる。

 その星野さんによれば、岩崎ノ鼻灯台は一九五一年(昭和二六年)に初点灯。その前身は、地元の廻船問屋にして豪商の藤井能三(ふじいのうぞう)が一八七七年(明治一〇年)に私費で建てた西洋式の伏木灯明台だそうだ。

 そうか。明治の頃は私人が灯台を作っていたのか。自前の船が港に戻ってこれないとなると一大事ではある。

 今は富山港などと統合されて伏木富山港となっているが、かつては伏木港が単独で存在しており、北前船の寄港地として大いに栄えたそうだ。

 灯台のある高台から見下ろす港は、確かに良港として必要なものがすべて揃っているように見えた。

「しかし、この前の地震で人も家もだいぶ減ってしまいました」

 星野さんの表情が曇る。

 十五年前、東日本大震災から数カ月後に宮城県の名取市を訪れたときの記憶が蘇った。見渡す限りなにもなかった。残っているのは家の土台だけ。自然災害は人の気持ちなど忖度せず、なにもかもを破壊し尽くす。

 能登の震災でも、多くの人が家を失い、この地で生きていく気力さえ根こそぎ奪われたに違いない。

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