ネタからも感じる“品”や“知性”
「冷笑の罠」に陥らず、踏みとどまった先に生まれる品や知性。その気配は、昨年のM-1決勝で披露されたドンデコルテのネタにも見て取れるかもしれない。
披露された2本のネタはいずれも、渡辺が社会と自己に対してもメタ的な視線を向けるものだった。デジタルデトックスをしたほうがいいができない自分、といった設定に見られるように。
こうした視線は、ともすれば冷笑に転じやすい。事象を相対化するほど、「どうせ」「今さら」という思考の反復に絡め取られる。メタ的に構えるほど、「結局」「所詮」が思考を支配する。
しかし、ドンデコルテのネタにそんな冷笑の気配は薄い。メタな視線を保ちながら、非冷笑的であり続ける。その絶妙なバランスに、私たちは品や知性を見出すのではないか。
人生の痛みとおかしみ。彼らのネタに滲むその不即不離の関係には、中華鍋を振るしかなかった切実さと、そこから生まれたチャーハンのおいしさの関係が重なる。完璧な円より、少し歪んだ円のほうが美しい。あのネタがおもしろかったのは、同時代を生きる者に共通する痛みが宿っていたからだ。鍋を振る姿が美しいとすれば、そうするしかなかった切実さがあるからだ。
もちろん、渡辺本人に本質的に品や知性があるというわけではないかもしれない。本人はネットの評価に対し、「高貴ってなんだよ。神経質なだけだよ」と軽く受け流している。先の「病んでいるのかもしれない」という言葉も、正直なところなのだろう。だが、その平然とした様子が、また人を惹きつける。本質がどうあれ、多くの人はそこに品を見てしまう。
