単なるケンカではない…番組内で描かれた「衝突」の意義

 番組中盤、ヒロヤとトモアキの間で起きた衝突にドキッとした方も多いのではないでしょうか。あのシーンも、単なるケンカとして片付けてはいけない、コミュニティが抱える構造的な問題を浮き彫りにした重要な場面でした。

 「ゲイ文化への偏見が強い」と自認するヒロヤの「知らない世界を知りたい」という思いが、なぜあんなに摩擦を生んでしまったのか。そこにはコミュニティ内部に存在する「内面化されたホモフォビア(同性愛嫌悪)」という根深いテーマが隠されています。

 まず注視すべきは「理解したい」というスタンスがはらむ危うさです。時にそれは「自分の側が“普通”で、相手が“特殊”である」という無意識の優劣構造を生んでしまうことがあります。たとえば、先進国の人間が途上国の文化を「興味深いもの」として消費したり、多数派が少数民族の暮らしを面白がったりすること。そのとき、観察する側は無意識に「安全で正しい場所」に留まり、相手を「理解されるべき他者」という枠にはめてはいないでしょうか。

 トモアキにとって新宿二丁目は、「気持ち悪い」と否定され続けてきた自分をようやく肯定できたかけがえのない居場所だった。それを仲間であるヒロヤから「未知の対象」として好奇の目にさらされたことで、否定されてきた過去を思い出し、「自分は、対等な友人ではなく、観察されるべき“珍しい存在”なのか」という、強い疎外感があの反発を招いたのだと思います。

 また、性的マイノリティ当事者が社会からの否定的な眼差しを自分の中に取り込んでしまう「内面化されたホモフォビア」も大きな背景にあります。その苦しみから逃れるために、自分とは違うタイプ(たとえば、よりゲイ文化を謳歌している人)を「理解不能な異質な存在」として線引きすることで、自分を切り離して守ろうとしてしまうことがあるのです。

 さらに、ゲイ・コミュニティの中には、無意識のうちに「男性性」を尊び、「異性愛者の男性っぽく振る舞うこと(ストレート・アクティング)」を上位とするような階層意識や、女性的な振る舞いを忌避する傾向も存在します。

 しかし、それはメディアがゲイの表象として「オネエ」や「二丁目」といったステレオタイプばかりを面白おかしく取り上げてきたことへの反発であり、マジョリティ社会から否定されないために適応してきた結果でもある。

 本作がこの「当事者同士の摩擦」を逃げずに映し出したことは、コミュニティ内部の多様なグラデーションを可視化したという意味で、極めて大きな意義があります。

 ヒロヤの問いかけは純粋な親愛からだったはずです。しかしトモアキは、消えない過去の傷があるからこそ反応せざるを得なかった。この衝突と和解は、多様な当事者の関係性を描き出すとともに、その先に連帯の可能性を示してくれました。

次のページ 「男女の恋愛と同じだね」の先にあるもの