小説を書くことができない小説家と気ままに生きるジャズピアニストを描いた、故色川武大(阿佐田哲也)の自伝的小説を映画化した『明日泣く』。そこで若き日の色川ともいえる、武役を演じた斎藤工。ドラマ「オトコマエ!」「最上の命医」など、お茶の間で知られる存在でありながらカルトムービーにも出演。また、映画誌で連載を担当するなど、無類の映画好きとして知られる彼の素顔はもちろん、映画に対する熱い想いに迫った。

映画好きは、現場スタッフだった父親の影響から

――芸能界デビューはモデルだったわけですが、そのときは映画界に進もうとは思っていなかったのですか?

 映画界に入る方法が分からなかったんです。高校1年のとき、ファッションという世界は映画界とどこか近いところにあるんじゃないかと思って、自分から出版社に連絡して、モデル事務所を紹介してもらいました。それをきっかけに高校の3年間だけ、モデルとして活動していたんです。

――それは「将来的に、映画の世界に入ること」を見越しての活動ですね?

 そうですね。父親が映像製作の仕事をしていたこともあって、幼少の頃から映画館に連れていかれたり、中学ぐらいから自分で脚本を書いていたので、まずは映画の専門学校に行きたいと思っていました。ところが父親から「映画は学校で勉強するものじゃない。まず現場に出ることを優先しろ」と言われたんです。そういう「現場に出る」という発想からのモデル活動でした。

――映画を本格的に好きになったきっかけは、中学生の頃にお父さんに勧められた『仁義なき戦い』シリーズ、というのは本当ですか?

 その頃、クエンティン・タランティーノの作品にハマっていたんですが、父親から「『仁義なき戦い』がルーツだから見ろ」と言われて、渋々見たんですよ。ところが、それがとにかく面白くて。そのとき、どんな映画を見てもルーツがあることに気付かされたんです。それで『戦艦ポチョムキン』に遡るように、映画全般を見るようになったのですが、まんまと父親の狙いにハマったということですね(笑)。

――斎藤さんにとって、お父さんはかなり大きい存在だったわけですね。実際はどんな方なのですか?

 本当に、映画と音楽と料理が好きな人です。過去には梶芽衣子さんの『修羅雪姫』の現場に参加していたり、音楽雑誌の編集をしていたり、泉谷しげるさんのマネージャーをしていたこともあったようです。今では引退して、母親と南米を放浪した後、都内で小さい地中海料理屋をやっています。僕が25歳のときに、「今のお前がやっと見られる映画だ」と成瀬巳喜男のDVDボックスが送られてきましたし、僕も僕で、デヴィッド・クローネンバーグの昔とは作風が違う『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のDVDを送ったり、そういう言葉のない“映画でのコミュニケーション”みたいなものをずっとしていますね。

――お話を伺っていると、俳優としてだけでなく、スタッフとしても映画界入りしたいと考えられていたのでは?

 そうですね。小学生の頃、父親の仕事現場に遊びに行って、「カメラに映っているものの手前には、多くのスタッフの方がいるんだ。映画ってこんなに大勢で作り上げる仕事なんだ」と思ったんです。映画に関わった方達の名前がずらっと並ぶ、エンドロールというものにも魅力を感じていました。

2011.11.04(金)
text:Hibiki Kurei
photographs:Asami Enomoto
styling:Kazuyo Koiso
hair&make-up:Shinji Hashimoto(atelier ism(R))