芸術家たちは作為のない、高みを目指す

 いったん古民家の宿に戻り、それから古民家レストランへと繰り出して「値賀咲(ちかさき)」をいただいた。小値賀島で獲れたイサキだが、漁網ではなく、一本釣りで上げたものだけが値賀咲と名乗れる。この魚もまた脂が乗っていて美味だった。前日に飲みそびれた酒「一二三(ひふみ)」もいただくことができた。すっきりとした味わいのなかにも、時代に媚(こ)びない堅実な旨味があった。

 酒が入れば口の滑りがよくなる。私はカメラマンの橋本さんに、写真のことをあれこれ尋ねた。

 仕事柄、いろんなカメラマンの方と接してきたが、私は風景を切り取ってくる彼らの哲学のようなものにつねづね感服してきた。だけど素人の私を感服させる写真は、プロの目にはどのように映るのだろう? いったいどんなところを目指しているのだろう? 橋本さんはきっとこの問題について長らく考えてきたにちがいない。私の質問に明快な言葉で答えてくれた。

「作為のない作品を目指したいと思っています」

 言いたいことはよくわかる。あらゆる芸術は作為によって産み出される。それでも芸術家たちは作為のない、いわば禅のような高みを目指す。美術の世界ではダダイズム、小説の世界ではアンチ・ロマン、音楽なら現代音楽(ぶっちゃけ、あんなものを理解できる人なんか本当にいるんですか?)。なるほど、写真もまたほかの芸術形態と同じような高みがあるというわけだ。

 しかし芸術という言葉は、まるでブラックホールみたいにそんな志を呑みこむ。いくら脱芸術を叫んだところで、ネオダダもまた芸術の一派に位置づけられるし、アンチ・ロマンもやはり小説以外のなにものでもない。

 芸術家は形式から逃れられない。なぜなら美とは形式のうちにこそ宿るもので、形式から自由になろうとすれば、美そのものを犠牲にするしかないからだ。そして形式とはけっきょくのところ、作為によるシステム化である。そのシステムから逸脱したとたん、芸術は寄る辺のない混沌と化す。バレエにはバレエの形式があり、そこから逸脱すれば、それはもはやバレエではなくなる。

 とはいえ、たとえ形式からは逃れられなくても、偶然に偶然が重なって、作為の裏をかくことはできるかもしれない。ダダイズムが偶然性を武器としたのはそのためだ。偶然性以外に、芸術家たちが作為に対抗する術はない。

「いや、おれもね」だなんて、酔いにまかせてくだを巻けば、橋本さんもうんうんとうなずいてくれる。

 杯を重ねるにつれて議論は堂々巡りの様相を呈し、作為も偶然性もどうでもよくなってくる。なべて世はこともなし。芸術についてあれこれ考えるのは、酔いから醒めて自己嫌悪に陥ってからでも遅くはない。なにしろ、瓶のなかにはまだ飲むべき酒が残っているのだから。

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