
恋愛、人間関係、そして自分自身……なぜ人は悩むのか。テレビでもおなじみの脳科学者・中野信子さんが脳科学の観点から人生相談に答えた『悩脳と生きる』から、一部再構成してご紹介します。
お悩み「つい嘘をついてしまう」
職務で嘘をついたことはないと予め申し上げておきますが、私生活においては子どもの頃から小さな嘘をつく癖があります。
最も古い記憶は、小学校低学年の頃に祖母の財布から5円玉を抜き取り、「おばあちゃん、落ちていたよ」と差し出すと祖母がたいそう喜んで頭を撫でてくれたことです。
学生時代は友人に「香取慎吾と同じ飛行機に搭乗した」とまでは言わないのですが「羽田空港で見かけた」という嘘をつきました。「カッコよかった~」と。
そんなことの繰り返しで、ついた嘘で自分が得するわけでも、自分をよく見せることができるわけでもない。相手が信じたからといって快感も覚えない。むしろ、なんでまた嘘ついちゃったんだろうと後悔します。
それでもついついまた嘘をついてしまうのは、一種の病気でしょうか。(44歳・女性 公務員)

人間は「嘘を必要とする生物種」です
初対面の人と話すとき、人は10分に3回嘘をつくそうです。相手に良い印象を与えるためです。「5円玉を拾った」「香取慎吾さんを見かけた」など、あなたが親しい人に作り話をしてしまうのは、相手の歓心を買おうとしてのことでしょう。
医学では「詐話」という現象が知られています。脳には右脳と左脳を結ぶ脳梁という神経線維の束があるのですが、ある症状を軽減するために、この部分を切断するという術式を取ることがあります。
こうした脳梁切断患者の方の右視野と左視野に異なるモノを置くと、右脳と左脳で違う認識をします。例えば、セパレータの左にハンマー、右にカギを置いて「何が見えますか?」と聞くと、「カギ」が見えると答えます。言語野は左脳にあるので右視野にあるものを答えるからです。
「見えたものを左手で取ってください」と頼むと、カギではなくハンマーを取ります。左手は右脳が制御していますから左視野にあるものを取るのです。そこで「どうしてカギが見えたと答えたのにハンマーを取ったのですか?」と聞くと、「カギが開かないのでハンマーで壊そうと思った」などと答えるのです。
しかし、この人はただ右脳と左脳が別のものを見たにすぎないわけです。それなのに、とっさに整合性をとろうとして、新しい筋書きの物語を作ってしまうのです。動物にも自らの失敗を隠そうとするなどの行動が見られるそうですが、このように高度な虚構を構築するのは人間だけです。
私たち人間は、いわばこの能力で生き延びてきたといっても過言ではありません。真っ黒なのにグレーゾーンと言ってみたり、矛盾を見聞きしても見なかったことにしたりするなどして何とかやり繰りしてきたのです。
もし嘘をつくということが人間にとって本当に「良くないこと」であったのなら、この能力はとっくに退化して消失していたことでしょう。つまり、私たちはむしろ「嘘を必要とする生物種」なのです。虚構を作る能力はとても大事な生存戦略の一部なのです。
紙切れを信用の印として使用するお金も、いってみれば虚構の上に構築されたのです。ファッションもメイクもネイルもまつげエクステも、元々の姿を覆い隠すものである以上、広い意味では嘘をつく行為といえるでしょう。
2025.08.08(金)
文=中野信子
写真=平松市聖