この記事の連載

 7月3日に代官山 蔦屋書店で行われたCREA夏号×中野信子さんのトークイベントの後半は、ライブ版「中野信子の人生相談」。事前募集したお悩みと、当日のフロアからの飛び入り相談に中野さんが生回答。会場での共感が特に大きかった「お悩み」をご紹介します。(前篇を読む)


Q「食事会や旅行でいつも自分だけ“余る”」

司会 最初のご相談は、33歳の会社員の女性からお寄せいただいたものです。

Q1 私は生まれたときに4000g近くあり、あと少しで巨大児だったそうです。常に同い年の子どもたちよりひと回り大きく、身長順に並ぶと必ずいちばん後ろでした。そのため、いつも私が余るのです。教室で2人ずつ並ぶ席でも私だけいちばん後ろで1人。体育で2人ずつ組むときも私だけ先生と組む。この“1人余る”感覚が33歳になった今も続いています。食事に行っても、旅行に行っても、なぜか私が1人席になる。合コンでは私だけカップルになれない。“余り”にならないためにはどうすればいいのでしょうか。

中野 私は巨大児ではなかったのに、いつも“余り”でした。小学校のときは欠席すると仲のいいクラスメートが宿題を届けてくれるものですが、私が休むと先生が持ってきてくれました。中学校でもそうでしたから、私も同じ側です。

 「“余り”にならないためにはどうすればいいのでしょうか」というご相談ですが、これは読み替えたほうがいいのかなと思っています。本当に聞きたいのは“余り”にならない方法ではなく、“余り”である自分を肯定できないということに悩んでいらっしゃるのではないでしょうか。

 そもそも「1人余る」って何なのか、ちょっと考えてみましょう。

 学校生活でそのようなことが起こります。明治維新以降、日本の学校教育制度のモデルとしたのは欧米各国の教育制度でした。それらの国において最も優先順位が高いのは国家の運営であって、そのための国民の教育であるから、教育とは格品を作ることにほかならなかったのです。

 国民は規格品になる義務を負わされて学校に行く。一人ひとりの子どものためではなく、規格品を作るという学校教育においては、“余り”の気持ちなんて考慮されるはずもなく、必ず誰かが“余り”になるんです。

 でも“余り”であっても、たとえ規格品として不適合であったとしても、それはその人自身の価値とはまったく関係ないんです。むしろ規格品でないほうが、AIにはできないことをやれるかもしれない。これからは「はずれ値」のほうが価値が高くなる時代なんです。

 “余り”であることは非常に価値が高いことですので、ぜひ誇りに思ってください。私も仲間です。

相談文の奥に“本当の悩み”が隠れている

司会 CREA夏号「1冊まるごと人生相談」のインタビューでも、中野さんは「人は相談する際に本当の悩みを話さない」とおっしゃっていました。だからその人が本当は何に悩んでいるのかを見極める。この相談者のお悩みについても今、そうされたのですね。

中野 そうですね。例えば「離婚したいんです」と相談する人は、本当は「愛されたいんです」と言いたいのに、そう言わないということがあります。

 自分の本心が分かっていないこともよくあるんですよ。ですから相談を受けたら、まずその人の本心を汲み取らないといけないと思うんです。

2025.08.09(土)
文=小峰敦子
写真=平松市聖