翌1946(昭和21)年に復員して、後免町へ戻る。
育ての母のキミさんから聞かされた悲しい知らせ
その時、育ての母のキミさんから聞かされたのは、弟・千尋さんの戦死だった。京都帝国大学に進学した千尋さんは、海軍特攻隊を志願して、南方で亡くなっていた。
「やっとのおもいで 上海に辿(たど)りついた時 もう戦争は終わっていた どうにか故郷へ帰りついたが ぼくを待っていたのは 弟の白い骨壺だった 壺の中にはちいさな木札が一枚だけ なんにも入っていなかった 白い海軍将校の制服の弟は 仏壇の写真の中で微笑していた 『兄貴 お先にいくぜ』というように」(『やなせたかし おとうとものがたり』フレーベル館刊)
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やなせさんはしばらく友人の仕事を手伝った後、高知新聞社へ入社。『月刊高知』の編集部で、後に妻となる暢(のぶ)さんと出会う。
次の年に高知新聞社を辞めて上京。一つ会社を経て、日本橋三越本店に入った。先に上京していた暢さんと入籍した。
三越では日本の百貨店で初めてとなるオリジナル包装紙「華ひらく」の制作に関わった。白地に赤の抽象的な造形は洋画家・猪熊弦一郎氏のデザインだが、赤い部分に絶妙な形で「mitsukoshi」と文字を入れたのは宣伝部にいたやなせさんだ。
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この包装紙は今なお三越のシンボルになっている。
三越は34歳で退社し、漫画家として独立した。
だが、なかなか世には認められなかった。
様々な仕事をしながら創作活動を続けた。ラジオのシナリオも書いた。『やさしいライオン』はまずラジオドラマとして放送され、好評だったことから1969(昭和44)年に絵本として出版された。
これがやなせさんの出世作になる。もう50歳になっていた。
絵本の主人公は、みなしごになったライオンだ。メス犬の「母」に育てられ、長じて都会へ移るが、育ての母への恩を忘れない。
やなせさんの人生に重なり合うような物語だった。
しかも、やなせさんが描いたライオンの絵は、行き場を失って柳瀬医院に持ち込まれたライオンの石像に似ていた。
2025.07.15(火)
文=葉上太郎