メダリストの父と交わした「二つの約束」
――義行さんはメキシコ五輪の銅メダリスト、伯父の三宅義信さんも1964年の東京、メキシコ五輪で金を獲得。その偉業は意識していましたか。
三宅 まったくです。オリンピックやメダルなんて興味もなかったし、どんな価値があるのかもわからなかった。というのも、父が私のかたくなな姿を見てコーチを引き受けてくれることになり、「途中で投げ出さない」「五輪でメダルを獲る」という二つの約束をさせられましたが、メダル獲得はそんなに難しいことと考えていませんでしたから(笑)。
でも、実際やってみたらとても厳しい世界だった。常に自分の未熟さを突き付けられ、落ち込むことも多かったけど、自分の未知なる領域を探り続けることの面白さに目覚めました。だから21年間も現役を続けられたんだと思います。

当時35歳で東京五輪に挑んだ
――現役最後となる東京五輪はどんな思いで臨みましたか。
三宅 北京五輪と同じように、私の競技人生の大きなターニングポイントの試合でした。
実はリオ五輪で引退を考えたこともあるんです。30歳を過ぎたころから、体が厳しくなってきて……。関節は確実に硬くなり、疲れは取れないし、瞬発力もなくなってくる。ケガも多く、体のあちこちが痛くても、いい時の感覚を覚えているので、その状態を取り戻したくて無理をする。無理をすればまたどこかを傷める。その繰り返しで、日々、葛藤を繰り返していました。

それでも自分の限界を知りたくて、チャレンジを決意しました。自国開催というのも心動かされましたね。
――5大会連続で五輪出場を果たしている三宅さんから見ても、東京五輪はかなり特殊な大会だったと思います。
三宅 「これが最後」と思う日々の中で、コロナの緊急事態宣言が発令。五輪の延期が決定された瞬間、何かがプツンと切れてしまった気がしました。
2025.06.21(土)
文=吉井妙子
撮影=鈴木七絵