驚異的ヒットの裏では
〈1988年、郷里の北海道函館市で、幼馴染のTAKUROとTERU(ボーカル担当)を中心にGLAYは結成された。翌年、HISASHI(ギター担当)の加入を経て、高校卒業後にデビューを夢見て上京。凸版印刷や山崎製パンの工場などで各々働きながらバンド活動に励んだ。1992年、別のバンドで上京していた同郷の後輩JIRO(ベース担当)が加入し、現在の4人が揃うと風向きが変わる。
1993年、デモテープを耳に留めたhide(X JAPAN)がYOSHIKIにGLAYを引き合わせたことが発端となり、1994年にはYOSHIKIプロデュースのシングル「RAIN」で念願のデビューを果たした。1997年に「口唇」がシングルとしては初のオリコンチャート1位、その3か月後にリリースした「HOWEVER」はシングルとしては初のミリオンセラーを達成。同年にリリースした初のベストアルバムは出荷枚数約500万枚という驚異的なヒットを記録した。1999年には幕張メッセ駐車場特設ステージで“20万人ライブ”を開催。だが、人気絶頂を極めた20世紀末、当時20代だった彼らは音楽活動の他、膨大な数のテレビ出演や雑誌取材に忙殺されていた。〉

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――解散寸前だったという1999年は、これまでの活動の歴史の中でも最も多忙な時期だったのでは?
JIRO 午前中からメイクをして、そのまま写真撮影が始まって家に帰れず、次の朝を同じスタジオで迎える、そんな生活でしたね。当時はまだフィルム撮影だったので、試し撮りのポラロイドの現像を待つ3分間が睡眠時間。あとは、名古屋でのライブが夜に終わると、そのまま東京に戻って朝方の東京都庁の前でジャケット写真の撮影、ということもありました。

TERU 2001年、9・11米国同時多発テロが起きた日(日本時間午後10時前)も、午前中からずっと撮影していた。HISASHIがテレビ画面を見て「なんだこれ?」と言ったんです。遅くまで撮影していなかったら、それをメンバーみんなで一緒に見ることもなかったですしね。四六時中、何かしらの仕事をしていた記憶があります。
JIRO そんな状況でも、曲を作らなければいけなかったTAKUROや、テレビ番組で生歌を届けなければいけなかったTERUは本当に大変だったと思う。申し訳ないんだけど、当時の僕は自分のことばかり考えていたから。今になって、若いTERUやTAKUROのことを考えると泣けます。
TERU いざ直接言われると照れるな(笑)。でも、JIROにそう言ってもらえるのは嬉しいですね。
あの頃、ツアーで全国をくまなく回っているときに、当時の事務所の人から「これだけ回っていれば、10年後、20年後に必ず結果が出るから」と言われていたんですよ。当時は何を言われているのか分からなかったけど、今はようやくその意味が分かります。
(構成 大前多恵)
※本記事の全文(約8600字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2025年6月号に掲載されています(TERU×JIRO「GLAY デビュー30年インタビュー 継続の美学」)。
全文では下記の内容をお読みいただけます。
・驚異的ヒットの裏では
・別のバンド名で再出発?
・笑わなくなったJIRO
・「破滅の美学」とは対極
・LUNA SEAとの約束
・ライブ会場に託児所を設置
・北海道でもドーム公演を
・故郷・函館にスタジオ建設
・「50代でも上手くなる」


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2025.05.28(水)
文=TERU、JIRO