働き始めて3年。33歳、結婚をした…

 そうやって自分なりのやり方を見つけ出して、どんなにお世話になってなくても「お世話になっております」のメールがスラスラと打てるようになった。取引先との会議で先方に分からないことを聞かれても焦らずに「一旦持ち帰らせていただきます」なんて澄ました顔で言えるようになった。今まで実家の部屋でずっとパソコンのディスプレイだけを見ていた自分が仕事をしている。誰かと。どこかで。朝起きて。会社に行って。仕事してますなんて雰囲気で。仕事に慣れてきた頃、帰り道にコンビニでビールを買って飲みながら歩いてみた。仕事終わりのビールは美味しいなんて言うけど、ビールはいつだって美味しい。変わったとこもある。変わらないとこもある。曖昧なまま流されて。川。

 働き始めてから3年。33歳。結婚をした。プロポーズは無かった。就職してからお付き合いをし始めて同棲をしていた彼女の方から「結婚しないの?」と言われて「しましょう……」とモゴモゴしながら返した。情けない返事はどこにも届かずに外を走る救急車の音にかき消されて床に落ちた。コロンッ……。シーン……。言い切れない。言い切る力がほしい。言い切れること。それは「ごはん大盛りでお願いします」だけ。そんな曖昧な結婚の始まりだった。

 それから、お互いの両親への挨拶、婚姻届の提出、結婚指輪の購入と事態はスルスルと進んでいき気がつけば夫婦になっていた。大きく何かが変わったわけではないけど、ゆっくりと気づいていった。記念日が一つ増えた。サブスクのファミリープランに入った。左手の薬指の違和感に手がムズムズした。選挙の案内が1つの封筒で2枚届くようになった。ちなみに結婚式はしなかった。お互いそこまで結婚式の必要性を重視していなかったし、ご祝儀の3万円をもらう程の自信もなかった。3万円。寿司とか食べれる。飛行機とか乗れる。だから。

 言い方が正しいとは思わないが、あえて言わせてもらうと……普通。普通すぎる。全ての言葉を使っても言い表せない密度の濃い普通の空気が充満している。窓を開けたくなる。毎日実家の部屋と土手にいただけなのに。就職をして。恋をして。結婚をして。毎日ご飯が美味しいとか、朝がつらいとか、土日って一瞬だよねとか言ってる。言わせていただいている。何も目標がない自分が。ゆらゆらと漂っているだけだった自分が。受動的な自分が。

 もちろん、今の時代は一般企業に就職することや結婚することだけが普通ではない。多種多様な生き方が模索できる素晴らしい時代だ。しかしあまりに何もなかった僕にとっては就職も結婚も遥か遠くの出来事だと思っていたし、決して仕事にも結婚にも不満があるわけではない。自由に昼寝ができる会社で働いているし、僕の趣味であるハードオフ・ブックオフ巡りも嫌な顔をせずについてきてくれる妻もいる。

 ただ、空腹の時にいきなり重いものを食べると胃がびっくりしてしまうように、30歳からの劇的な人生の変化。心がまだロード中なのに意識だけが先に進んでいるような感じがしていたのも確かだった。

 普通と安心を手に入れたことで、今度は普通じゃなさへの憧れと不安が生まれる。とても贅沢なことだとは分かっているけれど。それでも思ってしまう。思うことをやめられないでいる。毎日の仕事のなかで。毎日の生活の中で。トイレの中で。布団の中で。当たり前のように過ぎていく時間が不安になってしまう。

 それは毎日のように部屋でゴロゴロしていた無職時代に存在した自由な時間。社会からはみ出していたあの無限にも思えた時間を過ごしたからこそ、今の毎日が余計に有限で、余計に早く感じてしまうのかもしれない。僕は知っているのだ。何もしない日々の楽しさも。お金がない事の怖さも。全て。

2025.04.25(金)
文=マンスーン