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43歳、ふと思い立って家を出る

近田 お子さんが成長すると、手がかからなくなって、余裕が生まれるよね。

浅野 だから、40歳の頃から、バーの雇われママを始めたのよ。関内に「赤いチョッキ」っていう古いバーがあったんだけど、そこのママから「私は引退するけど、順子さんならママできるから、大丈夫」って言われて、そのまんま引き受けちゃった。

近田 磯子の喫茶店に関してもそうだけど、流れのままに生きてるよね(笑)。

浅野 でも、43歳の時、ふと思い立って、家を出たのよ。

近田 流れ、止めたねえ(笑)。

浅野 子どもたちが独立するより早く、港南台の家を出ることになった。あの時、お兄ちゃんはまだ19歳だったからね。

近田 家を出た理由は?

浅野 何しろ、結婚するのが早かったからね。夫と一緒になって20年も経つし、もういい加減、家から離れてもいいんじゃないのって思ってさ。

近田 なるほど。いかにも順子さんっぽい考えだよ。

浅野 東京に出たいっていう気持ちもあったし。それでも、たまには服なんかを取りに、家に戻ったりはしてたんだけどね。うち、鍵なんか掛けやしない家庭だったから、いつでも出入りできたのよ。

近田 ちょっと不用心だね(笑)。

浅野 居間のテレビの上には、私がアメリカのディズニーランドで撮った写真が飾ってあったわけ。よくあるじゃん。「VOGUE」とか、自分が雑誌の表紙になれるやつ。

近田 はいはい。表紙風のフレームに囲まれて、あたかも自分がセレブになった気分が味わえるやつね。

浅野 私が家を出てからも、しばらくはずっとテレビの上に立ててあったの。恐らく、私に対して未練があったんだと思うんだけど、ある日、気づいたら写真が伏せてあった。ああ、これはあきらめたなと(笑)。

近田 もう戻ってこないと白旗を掲げたんだね。

浅野 ということで、私は東京に出て、新しい生活を始めることになったの。

近田 じゃあ、浅野順子の新章は次回に譲るということで。楽しみです!

〈次回に続く〉

浅野順子(あさの・じゅんこ)

1950年横浜市出身。ゴーゴーダンサー、モデルなどを経て結婚し、ミュージシャンのKUJUN、俳優の浅野忠信の2児を儲ける。ブティックやバーの経営に携わった後、独学で絵画を描き始め、2013年、63歳にして初の個展を開催。その後、画家として創作を続ける。ファッションアイコンとしても注目を浴び、現在は、さまざまなブランドのモデルとしても再び活動を繰り広げている。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、宮台真司との共著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』(KKベストセラーズ)。

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2025.03.16(日)
文=下井草 秀
撮影=平松市聖