「料理をしているときが一番カリカリしている」
千早さんは、過去のインタビューでも、新作を執筆する際に必ず何か課題を設定するのだ、と答えている。本作では、何を自身の課題としたのだろうか。
「今回は、全編、主人公に名前をつけないで空白のまま書く、というのをまず決めました。誰の物語であってもいいように。やってみたら、結構書きにくいものだなと思いました(笑)。長編ではなく30枚くらいの短編だったから出来たことですね。あとは、自分の得意技を比較的抑えてみようというのがありました。よく“五感に訴えてくる文章”と言われるんですね。読んでいると、匂いがしてくるとか、お腹がすいてくる、色が見える……レビューにもそう書かれたりしますが、一編がこのくらいのボリュームしかないのに五感表現や描写ばかりに枚数を割くとバランスもおかしくなってしまうなと。フェティッシュに傷の描写全開で描きたいという我は抑えめに、そして出来るだけストレートに、切れ味を意識しました。今まで私の書き方を好きだと言ってくれていた読者の方は満足してくれるのかなという企みがあります。でも、血の匂いは誰でも、特に女性は知っているものですし、ケガしたことがない人も、体の痛みを味わったことがない人もいないので、細かく書かなくても伝わると思っています」
とはいえ、課題をクリアすることを至上命令のようにはしていないのだとか。
「クリア出来なかったら、出来なかった理由があるわけです。そうしたら次に、なぜ出来なかったかと考えて、自分はこういうところが弱点なんだなと理解する。ならばそこを克服するために、今度はこの作品でこうやってみようと、新しい課題を作るんです。課題の達成度より、そのフィードバックの方が大事だと思います。逆に言えば、振り返ったときに冷静に自分で判断出来ないというのは、作品に対しておかしな姿勢で挑んでいたり、視野狭窄を起こしている証拠なので、そこでまた軌道修正したり。書くという仕事はどこまでいってもひとり。ひとりで見つめ直すことが出来ないと、たぶん続けていけないんじゃないでしょうか」
「課題を作り、フィードバックをする」というスタイルで、書き続けてきた千早さん。ちなみに、小説以外にも同じ姿勢で臨むのだろうか。
「わりとそうですね。いちばんは料理。ちょっとのろけですけど、うちの夫が、私の料理をめちゃくちゃ褒めてくれるんです。『なんでこんなにおいしいの』って。『毎回、次はどうすればもっとうまく出来るか考えて作ってるからだよ』と答えると、『毎回ってすごいよ。ふつうは毎回なんて考えないでしょ』とまた褒めてくれる。私自身、惰性で料理をするというのに嫌悪感があって。惰性で作るなら作らない方がまし、食材にも失礼だしと思っています。現代は作らなくても食べる方法はいくらでもありますし、作るなら、作りたいという気持ちで真剣に取り組みたいです。
うち、猫がいるんですが、『遊べ』とか『おやつくれ』とかアピールしてきてしょっちゅう仕事の邪魔をしてくるんですね。でも、あまり気にならないんですよ。仕事中に、夫に話しかけられても全然平気なんですが、料理中に話しかけられるのはものすごいカリカリします。料理しているときの私がいちばんカリカリしてるんじゃないかな(笑)」
千早茜(ちはや・あかね)
2008年『魚神』で第21回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2013年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞を、2021年『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞を、2023年『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞。食にまつわるエッセイも人気。
X:@chihacenti
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2024.05.10(金)
文=三浦天紗子
撮影=平松市聖