この記事の連載

 「傷」をめぐる忘れ得ぬ記憶や痛み……。千早茜さんの『グリフィスの傷』は、回復と癒しを描く10編からなる短編集です。千早さんが得意とする繊細な心理描写と官能的ですらある情景描写に陶然とすること請け合い。本作誕生の秘密をうかがいます。

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心のコンディションと違って体の傷は治癒の過程がわかる

「もともと傷や傷跡が好きで、編集さんに『傷の短編を書きたい』と、何年も前からずっと相談していたんです。でも『しろがねの葉』で直木賞をいただいたこともあり、エンタメの小説誌に求められる内容とか分量とか、どうしても『透明な夜の香り』や『マリエ』のような長編の依頼が多く、なかなか書けずにいました。そんな中で、『じゃあ、純文学系の「すばる」がいいかもね』ということになり……。一話一話が独立した短編集って本当に久々な気がします。もちろん、傷跡といったくくりはあるのですが」

 傷や傷跡は、確かにどこかセンシュアルで、一種のフェティシズムをくすぐるようにも思う。

「自分に、ちょっとした傷……打撲とか切り傷とか火傷とかが出来ると、その損傷の変化を毎日写真に撮って、観察するのが好きなんですよ。自分の心って、コンディションがいい日も悪い日もあって、傷ついた後に治癒していくさまが目に見えるわけではないですよね。でも体は心の状態に関係なく、淡々と、自分で自分を癒やしていくんだなというのを確認出来るからすごい楽しくて。あと、医学書や標本の本とかも好きなんです。折に触れて読んだり眺めたり。傷はどんなふうに治療するのか、傷跡として残ったらどうなるのか、つい調べてしまうんですね。この連載でも、毎回『この傷にしようかな』と医学書を参考にしていました」

 各編のモチーフに使われている傷や傷跡はいろいろだ。最初の短編「竜舌蘭」に出てくるのは、語り手の女の子が負った太ももの切創。「この世のすべての」では顔のひきつれた男が、「結露」には性行為後にシーツについた血を見て焦る男性会社員が、登場する。「まぶたの光」で扱った〈先天性眼瞼下垂〉の手術は、自分の大腿筋の筋膜を移植して行われるのだが、主人公の〈あたし〉は三歳のときにその手術を受け、そのせいで〈ふとももの内側に目をこらさなくてはわからないくらいの傷〉がある。

「先天性眼瞼下垂の原因は、眼瞼挙筋というまぶたを開く筋肉や神経の発達異常があげられるそうです。今回、形成外科の先生に取材させてもらったんですけれど、傷を治すためにはどこかを傷つけなくてはいけない可能性が出てくる。皮膚移植して、大きな傷を治しても採皮された場所には傷が残ってしまう。形成外科の技術で目立たなくすることは出来ますが、ゼロにはならないんですよね。表題作の『グリフィスの傷』で描いたリストカットの傷跡についても調べたら、レーザーとかで修復して薄くは出来るものの、完全に消せるわけじゃないそうなんですよ。出来るだけ傷がないように見せたければ、自分の皮膚を目立たない場所から採って移植するしかない。傷を治すためにつく傷があるというのも複雑だなと。あと、処女膜再生手術というものがあることも知りました。性加害を受けて、せめて体だけでも元通りになりたいって人もいるらしくて。なるほど、需要があるから存在してる治療もあるのだなといろいろ考えさせられました」

2024.05.10(金)
文=三浦天紗子
撮影=平松市聖