高校3年生のときに、テレビ主題歌で作詞家デビュー。以来、ハロー!プロジェクトをはじめとする数々のアイドルソングやアニメソングの歌詞を手がける児玉雨子さん。

 大学時代、軽い気持ちで読んだ松尾芭蕉の俳諧に尖ったパンク精神を垣間見たことで、江戸文芸に沼落ち。そんな児玉さんが先月、読者と一緒に読んでいくことをテーマに据えた江戸文芸にまつわるエッセイ『江戸POP道中文字栗毛』(集英社)を上梓した。令和を生きる私たちと江戸時代を生きた人々のそう遠くない感覚や倫理観を知ると、江戸文芸を少しだけ手繰り寄せることができるはず。文芸のみならず児玉さんの物事を面白がる視点は、作詞活動にも活きている。

倫理観を逸脱した行動は当時からちゃんと炎上案件だった

――近世文学に興味を持たれたきっかけは何だったのですか?

 大学生のときに必修で近世文芸を読まなきゃいけなくて、面倒だなと想いながら松尾芭蕉を選んだんです。ほんとに軽い気持ちだったのですが、芭蕉が蕉門と詠んだ俳諧「冬の日」のかっこよさにやられました。発句は、“狂句木枯の身は竹齋に似たる哉(きょうくこがらしのみはちくさいににたるかな)”。「俺は俳諧狂いの芭蕉 竹齋みたいに 木枯らしに吹かれてここに来たぜ」と名乗るようなもの。雅な和歌へのカウンターをかまして自身の立場を表明するなんて、HIPHOPみたいで面白いじゃん! って。こんなに尖った初期作があったことに感動しました。それから江戸文芸を掘っていくと、江戸時代にもこんな人がいたんだと、人間臭さにも惹かれていって。南総里見八犬伝とか忠臣蔵みたいな、忠義をどうのこうのっていう話が多いという先入観があったんですけど、全然そんなことなかった。

――カウンターをかます姿勢もそうですけど、『江戸POP道中文字栗毛』を読むと、江戸時代の人も現代に近い感覚や行動の動機みたいなものを持っていたんだなと感じます。

 お金へのがめつさがリアルですよね(笑)。今回の本からは漏れているのですが、為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』は、携帯小説みたいなストーリーだなぁと思います。四角関係の恋愛物語ですが、女性たちの境遇や心情がそれを連想させます。金のない男にいろんな女性が貢ぐお話です。女性たちがめちゃくちゃ頑張ってお金を稼いで、彼を助けてあげたい、と奮闘する。

――ホス狂、みたいな?

 そうなんですよ! しかも、そこから女の子同士で急にシスターフッドが芽生える。続編では、男への恋心より、彼を取り合った女との友情のほうが強調される場面もありますね。

 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、担当編集者が今回の本の帯に書いてくれたように、江戸から伊勢へ向かう道中の「イキり散らしたクズ男たち」の話です。弥次喜多が何かにつけて女性を貶めようとする。けれど、女性たちがどんどん逞しくなってゆくのがこの話の面白いところ。騙そうとしていることも、お金を盗もうとしていることも、全部お見通しだよ! って跳ね除ける。駿河出身という設定の弥次喜多は、その道すがらの都会の京女たちに軽くあしらわれてしまう。「胸糞スカッとジャパン」って、私は言っています(笑)。

 そもそも弥次喜多は江戸っ子の設定だったのが、彼らの振る舞いがあまりによろしくないため、その設定が変更されたという経緯もあります。当時の人たちも、こんなのはダメ! という基準を持っていたんですよね。実は当時からちゃんと炎上案件だったんです。

――例えば、女性蔑視。

 と思うんですが、この時代、女性蔑視については「ダサい」という視点だったようです。私たちは倫理や権利の話として受け取っているけれど、当時の感覚としては、その行動が洗練されているかどうかの話。式亭三馬の『浮世風呂』は、江戸の社交場だった銭湯を舞台にそこに集う老若男女のリアルな会話を綴る滑稽本なのですが、三馬は男性だから女湯には到底入れない。けれどリアリズムに徹した人気作なので、出版社にせがまれて女湯の話を書くために女湯の中を覗くというシーンがあるんです。

 これについては三馬が地の文で「なんでこんなに恥ずかしいことをしなきゃいけないんだ」って書いてある。倫理的に女性のスペースを覗き見ることが悪なのではなく「こういうことは洗練の何たるかを知らない、田舎侍みたいな恥ずかしい行動だ」と彼は言ってるんですよね。建前上は武家社会であっても、そういったものに対してダサいっていう感覚があったんです。

2023.10.21(土)
文=藤井そのこ
撮影=平松市聖