感動を受け取らなければ読書じゃない、わけじゃない

「港区女子」をテーマにした夢小説をずっと書きたいと思っているんです。『東京カレンダー』の表紙を飾る俳優さんを主役にした『東カレ・シスターフッド』。良くないですか?

――読みたい! 女性たちはみんな友達という設定ですか?
  
 そう。「(自分には何かが)足りないって思ってるだけだよ、あんた」って伝えたい。「持ってるじゃん、すでに。うちがいるじゃん!」って。毎回型は同じなんです。最後に「そんな奴と結婚すんな! オジと食べる寿司が美味しいか! 二人でかっぱ寿司行くぞ!」って私が連れ出す(笑)。もちろんシェアリングカーで帰ります。

――高級車ではなく。

「揺れるんだけど〜」って言われながら(笑)。

――著書で「江戸文芸は純粋な娯楽である」と書かれていますが、まさに今おっしゃった話は、純粋な娯楽なのでは? 本の言葉を借りると、「読者の人生に影響を与えてやろうと言わんばかりのクソバイスもなければ、『泣かせてやろう』とか『性的に興奮を与えてやろう』とかいった体液頂戴物でもない」、純粋な娯楽ですよね。

 私自身、どんな作品からも、何か意味を受け取らなきゃと思っていたことがあったんです。SNSがある今、何かしら感想を寄せなければと思う人たちもきっと沢山いて、「開始から号泣」とか「ずっと泣いてました」って書いてあったりする。でも、ちょっとだけ泣いた、でも全然よくわかりませんでした、でもいいですよね。

 先ほどもお話した式亭三馬の『浮世風呂』は、銭湯で人がぺちゃくちゃ喋っているだけのお話。でも会話にほっこりしたり、急に一致団結したりっていう人間の心の動きが面白い。オチやテーマがあるわけではないから文学作品としての評価は低いんですけど、私自身は果たしてそうだろうか、と思います。

 そこに問いかけや答えがあるものが「文学」だとするならそれには当てはまらないかもしれないけれど、娯楽的で何も背負わずに読めるというのも貴重な作風であると思う。江戸文芸を読んでいると、感動したものを受け取らないと読書じゃないってわけではない、読めていないわけではないんだと思えます。

2023.10.21(土)
文=藤井そのこ
撮影=平松市聖