このころに書かれたエッセイが、第一部「なぜ小説が書けないか」、第二部「英雄の死」「吉田健一氏の文章」「『日本文学を読む』を読む」、第三部「やさしさについて」「『自己』を知る」です。とりわけ三島由紀夫の死を悼む「英雄の死」は、ひとりの天才への哀惜の念のこめられた優れた作家論であり、「吉田健一氏の文章」は、愛してやまなかった吉田健一を讃えるみごとな追悼文となっています。「この上等の葡萄酒と同じ性質の文章を書いたのは吉田健一氏をもって嚆矢(こうし)とする」という一文が胸を打ちます。

 八〇年代は作家としてもっとも充実していた十年で、後期の物語性を追求した幻想的な倉橋文学はこの時期に完成を見たと言ってもいいでしょう。『大人のための残酷童話』(八四年 新潮社)、『倉橋由美子の怪奇掌篇』(八五年 潮出版社)、女性だけの世界を諷刺的に描いた『アマノン国往還記』(八六年 新潮社)、さらには『夢の浮橋』の主人公桂子さんとその縁者を中心に物語が展開していく『城の中の城』(八〇年 新潮社)、『シュンポシオン』(八五年 福武書店)、『ポポイ』(八七年 福武書店)、『交歓』(八九年 新潮社)、『夢の通ひ路』(八九年 講談社)、『幻想絵画館』(九一年 文藝春秋)などの一連の作品も書いています。前期の作品にもまして、倉橋の教養の幅の広さと深さ、芸術一般への造詣(ぞうけい)の深さがうかがわれる、華やかで濃密な作品世界が展開していきます。八七年に『アマノン国往還記』が第十五回泉鏡花文学賞を受賞。八八年、母が七十九歳で死去。第一部「読者の反応」、第二部「澁澤龍彥の世界」「百閒雑感」が書かれたのはこのころでした。

 ところが一九九〇年ごろから、心拍音が耳に響くという原因不明の奇病に悩まされるようになります。九七年には修善寺の山の中に「(つい)棲家(すみか)」を建てて移り住みますが、音はいっこうに鳴りやむ気配はありませんでした。第三部「夜 その過去と現在」は当時の苦しみが伝わってくるようなエッセイです。それでも倉橋は、自己をあくまでも「他者」と見なし、冷めたユーモアを交えながら率直に語っています。

2024.04.23(火)
文=古屋 美登里(翻訳家)