2023年1~12月にCREA WEBで反響の大きかった記事ベスト7を発表します。ビューティー・ライフスタイル部門の第2位は、こちら!(初公開日 2023年6月28日)。

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 50余年、梅一筋に生きてきた82歳の現役梅職人の乗松祥子さん。2023年5月に乗松さんの梅仕事、人生、梅レシピ、乗松さんが親しくしていた樹木希林さんの長女・内田也哉子さんとの梅対談を盛り込んだ、4年もの歳月をかけ、集大成ともいえる1冊『梅おばあちゃんの贈りもの』が上梓された。

 梅干しとは本来、顔が曲がるほど酸っぱくてしょっぱいもの。「果たして、今の若い人は本物の梅干しを食べたことはあるだろうか」……そんな憂いを抱く乗松さんがこの本で伝えたかったのは、日本人の命と健康を支え続けてきた昔ながらの梅干しの尊さ。“梅仕事は自然を学ぶこと”、そう語る乗松さんに、人生の伴侶ともいえる杉田梅のこと、元気の秘訣などを教えていただいた。

 取材のため私たちが乗松さんの家に訪れたときは丁度、梅の収穫期。玄関のドアを開けると、梅林から届いたばかりの梅の爽やかな香りに迎えられた。たくさんの梅に見守られる中、乗松さんが語ってくれた、とっておきの梅物語。


身体と心が整う梅仕事は何よりの養生

――乗松さんは80歳を超えた現在でも若いスタッフと同様に仕事こなし、声にもハリがあり、お肌も輝いています。老眼鏡や補聴器、義歯とも無縁のようですが、やはり元気の秘訣は梅仕事なのでしょうか。

乗松祥子さん(以下、乗松) はい、梅の神様のおかげだと思っています(笑)。小さい頃から虚弱体質で夏の太陽の下に出ると貧血を起こしていたのですが、梅仕事を初めてからどんどん体調がよくなっていきました。

 梅の実を触ったり、香りに包まれたりすることで梅から元気をいただいているんでしょうね。特に、梅肉エキスを作るときは5日間青梅を煮詰めていくのですが、仕上がる直前に水蒸気が上がり、その後、サーッと後光が差すように煙が上がるんです。この煙が全身を浄化し、細胞を活性化するのかも知れません。

 よく友人からは「乗松さんは梅肉エキスを作るたびに元気になっていく」と冗談で言われています。

――そもそも乗松さんが梅に惹かれたきっかけはなんだったのでしょう。

乗松 20代の頃「辻留」という懐石料理店に勤めていたのですが、店舗を移転するときに、床下から100余年前の梅干しが出てきて、壺の蓋を開けてみると、ミイラのように黒く干からびた梅干しが鎮座していたんです。料理長に梅酢に漬けたら蘇るから、と言われ、迷いながらも持ち帰ることに。そのときは梅干しより、壺にかけられていた日露戦争のことが書かれた古新聞に興味があったんです(笑)。

 ですから、友人が古い梅干しを分けて欲しいと訪ねてくるまで、梅のことなどすっかり忘れていました。彼女はがんを患っている叔母さんの痛み取りの湿布に古い梅干しが効くと話し、いくつか分けて差し上げたんです。後日、痛みが大変和らいだという朗報とともに、梅酢をくださいました。

 その梅酢を古い梅干しが入った壺に注いでおきました。数年後、壺をのぞいたら、ミイラ化していた梅干しがふっくらと蘇っていたんです。恐る恐る食べてみると、酸味も塩味もしっかり残っている。100年経っても食べられる食品があること、梅という食材の生命力の強さに衝撃を受けたことを今でも覚えています。

 このとき、「よし! 私も100年先まで食べられる梅干しを作ろう!」と思ったのが、梅仕事の始まりでした。

梅干し作りを口実に、お店の仕事を休めたんです(笑)

――梅干しを初めて漬けたときのことを教えてください。

乗松 初めは失敗ばかりでした。母の梅仕事を思い出し見様見真似でやってみたのですが、梅はともかくしそのこととなるとかなり曖昧。水で洗い、よく拭いて梅の中に入れておいたらカビが出て、慌てて本を買いに走りました。しそを塩で揉むことも知らなかったんです。

 このときの梅は無事で、梅のクエン酸の底力を初めて知った出来事でした。こうして、試行錯誤を繰り返しながら、梅と真摯に向き合う日々は新しい発見の連続でした。

 忘れられないのが、アク抜きをしたしそに梅酢を加える瞬間。アントシアニンの働きで一瞬にして鮮やかなピンク色に激変する様がまことにドラマティック。何度見てもいくつになっても飽きることなく、梅仕事の初心に戻ることができます。

――実は、酸っぱいものは苦手だった、と書かれていますが、それなのになぜ梅干し作りを?

乗松 梅干しは食べるよりも、作るのが面白くて続けていました。基本的に酸っぱい食べ物は苦手だったんです。それなのに、梅干しを毎年作るようになったのは、休暇が欲しかったからという、まことに不純な動機でした。

 当時「辻留」では、ほとんど休みがとれず、梅干し作りを口実にすれば少しは休みをいただけるかな、と思ったんです。というのも店主の辻嘉一さんは梅干し好きで、よくお豆腐に梅干しを添えて召し上がっているところを目にしていたからです。あっさりとお許しをいただき、毎年、土用干しの2〜3日ほどが、私の梅干し休暇となりました。

 苦手だった梅干しが好きになったのは、20年ほど前に体調を崩し入院したとき。病院食が食べられられず、心配した友人が梅干しを置いて行ってくれたんです。おかゆに入れてみたらおいしくて。それに、梅干しを食べると不思議に気分も身体もシャキッとするんです。梅干しは古くから日本人の健康を支えてきた食材であることを、身を持って体験しました。

乗松さんの人生を変えた“幻の杉田梅”とは?

――本書の中で杉田梅と出合ったときに、「今までの梅は一体なんだったんだろう? と思うほどショックを受けた」とありますが、杉田梅とはどんな梅なのでしょうか。

乗松 とにかく酸っぱい、昔ながらの梅です。杉田梅は千葉県茂原地方に由来し、僧によって現在の神奈川県横浜市磯子区の杉田地区にもたらされた、品種改良をされていない野梅系の貴重な梅です。実が大きく、クエン酸の濃度が塩酸と同じほど高く、かなり酸っぱい。でも、だからこそ健康効果が高く、食の万能薬としての力を持っています。

 ただ、その酸っぱさと一度では食べきれない大きさ、皮が薄く敗れやすいことから商売品としては扱いにくい、という理由で一度は市場から消えかかりました。

 それと同時に多くの農家が、確実に売れてどんどん実をつける品種改良の梅を育て出し、杉田梅の木を伐採し始めました。また、もともと希少で生産量が少なかったことも“幻“と呼ばれる所以です。

――乗松さんは、杉田梅の命を幻にしないように、地道な植林活動を始められましたが、そのときのお気持ちをお聞かせください。

乗松 梅の命はクエン酸。私の知る限り、梅本来の力を持つ杉田梅は秀逸の中の秀逸です。毎年杉田梅で梅干しや梅肉エキスを作っていた私は、このままでは日本を代表する杉田梅がなくなってしまう。そんな大きな危機感を持ち、自分がすぐにできることは何かを考えました。

 当時、代官山で和食料理店を営んでおりまして、幸い全国からお客様がいらしてくださっていたので、杉田梅に興味を持ってくださる方に手分けして梅を育てていただくことをお願いしたのです。そうすれば杉田梅の木は全国に残り、命を繋ぐことができると思ったから。私がお世話になっていた神奈川県小田原市の曽我別所梅林の何軒かの農家の方には「収穫した実はすべて引き取りますから、育て続けてください」とお願いして歩きました。

――なぜ、そこまでして杉田梅を残そうとしたのですか。

乗松 いつか梅が抹茶やだしのように世界で注目される食材になったときに、日本には杉田梅という野梅系の梅があります、と胸を張って誇れる梅を残しておきたかったんです。それに、昔ながらの酸っぱい梅干しは、コロナのようなウィルスや災害が増えていくこれからの時代に欠かせない食のお守りになってくれますから。

2024.01.05(金)
文=高橋敬恵子
撮影=森泉匡、川上輝明、榎本麻美