出産を担当した山王病院名誉病院長の堤治氏が振り返る。

「ご出産された瞬間に雅子さまは、母親の慈愛に満ちたお顔になられました。私の記憶違いか、その後の会見のご発言と混同しているのかもしれませんが、本当は分娩室でも『生まれてきてくれてありがとう』とおっしゃったと思います。

 最後、退院される際に、雅子さまが『お産がとても楽しかった』とおっしゃられたことが深く印象に残っています。他の産婦さんからは聞いたことのない言葉だったので、その後の私の産婦人科医人生を変えたと言っても過言ではありません」

 妊娠中の雅子さまは、皇太子と必ず一緒に健診に来られていた。ある時、堤氏が「エコーで性別が分かります」と伝えると、皇太子は即座に「教えていただかなくて大丈夫です」とお答えになったという。隣にいた雅子さまも同じご意向であることは、目を見ればすぐに分かった。

 だが、皇室の考えは違った。愛子さまをご出産されてから日を置かず、雅子さまには「2人目のご出産」の相談が持ち掛けられている。男子の出産を迫られる状況は少しも変わらなかったのだ。むしろそのプレッシャーは増していった。

 

皇太子は涙を流された

 心身ともに疲弊され、追い詰められた雅子さまは、03年春ごろから発熱や朝起きられない日が続き、抑うつ状態に陥ることが増えた。同年12月には、ストレスが原因とされる「帯状疱疹」を発症され、宮内庁病院に入院もしている。

 そんな雅子さまに、追い打ちをかけるように、当時の湯浅利夫宮内庁長官が定例会見で衝撃的な発言をし、世間に波紋を広げたのだった。

「秋篠宮さまのお考えはあると思うが、皇室の繁栄を考えると、3人目を強く希望したい」

 雅子さまに期待しないかのような発言に、雅子さまは深く傷つかれたという。また、この踏み込んだ発言は長官の一存でなされたはずがなく、背後に当時の天皇皇后両陛下の強いご希望があることも想像された。

 翌04年3月に、雅子さまは愛子さまを連れて、実家である小和田家の軽井沢の別荘で、療養生活を始められた。ベテランの皇室記者が当時を振り返る。

2024.01.03(水)
文=「文藝春秋」編集部