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出生率低下はストライキなのか

 子どもがいない人の増加を、フェミニストの勝利と見なしたくなるかもしれない。または、アメリカの家族を長い間封じ込めてきた異性愛主義の箱を壊し(あるいはへこませて)、ライフスタイルを正常化できたのだと。または、選択肢を持ち、自分が望む人生を選ぶ能力を備えた世代の女性が一斉に声を上げたのだと。

 しかし、私はこれを勝利と呼ぶことをためらっている。あまりにも多くの選択が、経済的な苦痛と支援の欠如と将来への不安によって決定されているからだ。アメリカの親たちがコロナ禍のロックダウンに苦しんだ理由や、アメリカの親たちがたとえ最高潮の時期であっても苦労している理由は、アメリカの女性が出産の予定を立てない理由と、さほど違わない。そう考えると気が滅入るが、そのことが連帯の求心力になることを願っている。

 活動家で作家のジェニー・ブラウンは、アメリカの出生率の低下を、仕事のスローダウン(怠業)またはストライキとして理解すべきだと主張する。出産と子育てという労働を担う人々が、与えられた劣悪な条件下で働くことを次第に拒むようになったのだ。総合的な社会的傾向というものさしで測るのなら、確かにそう考えるのが最良かもしれない。ただし「ストライキ」という言葉には主体性と意図も含まれている。多くの女性が生殖の決定に関して感じていると報告されるよりも、はるかに多くの主体性と意図がそこにはあるのだ。

 人類学者のミシェル=ロルフ・トルイヨは、労働者が職場を離れることはストライキの定義を十分に満たしていないと見ている。同じ日に多くの労働者が職場に現れないのは、大雪の影響かもしれないし、ウイルス性胃腸炎が職場に広がっているせいかもしれないし、単なる偶然の一致かもしれない。何らかの共通する理由が、出勤しないという集合的な決断を下すための理由が必要なのだ。トルイヨはこう書いている。「最もシンプルな言い方をすると、労働者自身がストライキをしている自覚がある場合にのみ、それをストライキと呼ぶのである」。

 アメリカの女性が自覚した上でストライキをしているという確信は、私にはない。私たちが子どもを産まない理由は、連続していたり、集団的であるというよりも、分散していて、個人的なように思える。そもそも子ども自体に関係のない理由が多く、たとえばお金がない、支援が得られない、パートナーがいない、仕事のスケジュールが柔軟でないだとか、火事や洪水が心配だとか、生物学的に困難だとか、違う人生を望んでいるから、といった具合だ。こういった理由も目新しいものではないが、その歴史が除かれた状態で私たちに提示されている。

 フェミニズムのせいで私たちがキャリアを優先するようになったと言われているし、心配性の人のせいで気候変動に極度に怯えるようになったとも、待つ時間が長すぎて不妊になったとも言われている。1980年代や90年代や2000年代の初めに生まれたせいで、どういうわけか利己的になったとも。

 歴史を振り返ってこういった点と点をつなげなければ、女性が子どもを産まない理由は、ストライキではなく個人の決断のように見えてしまうし、共有できる経験ではなく現代の(現実と想像上の)ストレスを乗り越えられない個人の失敗のように感じられる。ある賢明な友人の言葉を借りると、「これがストライキだとしたら、私たちはまだ連帯感さえ得られていない」のだ。互いとの連帯、そして歴史とのつながりを、この本によって伝えられるよう願っている。

それでも母親になるべきですか

定価 2,200円(税込)
新潮社
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ペギー・オドネル・ヘフィントン(Heffington,Peggy O'Donnell)

作家。カリフォルニア大学バークレー校で歴史学博士号を取得。米陸軍士官学校に博士研究員として勤務後、シカゴ大学へ。ジェンダーや母性、人権等の歴史を教えるほか、エッセイや論文を多数発表。『それでも母親になるべきですか』が初の著書。グミキャンディについても多くの意見を持ち、夫のボブ、2匹のパグ、エリーとジェイクとともにシカゴに在住。

次の話を読む「出生率は絶望のバロメーター」 “経済的な状況”と“女性が子どもを持つこと”の本当の関係

2023.12.12(火)
著=ペギー・オドネル・ヘフィントン
訳=鹿田昌美