「本物のナイトになれ」
しかし、これは、ラブ・ストーリーを見る側だけの問題ではなく、演じる側にもあてはまるのではないだろうか。頭の中で「女性が喜ぶ男性のありかた」を安易に想像して作られたものを見て喜べない観客(ターゲットが女性であれば女性の)がいるように、そのような安易なキャラクターを演じる俳優も、一生懸命演じてみたとところで、どこか空虚な思いを感じるのではないか、と自分は想像してしまう。
しかし、『MY (K)NIGHT』では、そのような定型的な理想の男性像として作られたキャラクターはひとりもいなかった。それどころか、女性の感情に寄り添ううちに、自分の痛みや弱さといった感情にも触れるような複雑な男性が描かれていた。刹那やイチヤや刻は、「甘い」ラブ・シーンを演じたわけでも、女性に尽くしたわけでもないのに、夜が明ける頃には女性たちにとっての「KNIGHT」になっていた。
ただ、「ナイト=騎士」という言葉の持つイメージについて考えると、本来の意味が過剰に解釈され、ときには女性に優しいだけの無能な存在として、男性をバカにする文脈で使われることに思い及ぶ。そのこととミソジニーは無関係ではないだろう。例えば、往年のヤクザ映画に出てくるようなキャラクターが、女性を守ったり、女性の気持ちに寄り添う「ナイト」の性質を持つことは少ない。それは、男には男の本分があるから女性の感情に寄り添うような時間はないという言い分が根底にあるのかもしれない。
このように女性を性的なこと以外では排除し、精神的な結びつきは男性同士で形成したいという欲望のことをホモソーシャルと言うが、よく考えると、この映画には、刹那やイチヤ、刻たちの間にだけでなく、彼らのボスである弘毅(村上淳)との間にもそのようなホモソーシャルな関係性は見られない。それは、弘毅が普段から口酸っぱく刹那たちに「クソ男ばかりいるこの国で、本物のナイトになれ」と言っていることからもわかる。
2023.12.01(金)
文=西森路代