たしかに人生は、つまんないことで忙しい。この実感に共感しない人がこの世にいるのだろうか。銀行口座の残金や、上司の嫌味、苦労の絶えない仕事。SNSに載せてみんなに見せられるようなキラキラした非日常なんて一瞬で通り過ぎ、あとは果てしなく重たい日常だけが人生には広がっている。誰だってそうだろう。

 しかし山本さんの凄いところは、この「つまんないことで忙しい」彼女の日常を、作中で少しずつ私たちの日常からずらしていくところだ。読者を彼女にただ共感させるだけでは、終わらせない。そして彼女を現実から遠いフィクショナルな存在として描き出すことも、しない。

 読者が彼女のことをどう思っているのか、山本さんは注意深くコントロールしつつ、最後には読者の欺瞞まで鮮やかに気づかせる。結末部分の読後感はさすがとしか言いようがない。まだ本作を読んでいない方がいたら、今すぐ読んでくれ、と私は肩を揺さぶるだろう。

 誰かの日常の肯定。それを、ちゃんとカタルシスをもって、エンターテインメントとして高水準に読者を楽しませながらやってのけた作家を、私はほかに知らない。稀有な作家なのだ。本作を読みながら私はその事実を噛み締める。

 1988年に少女小説家としてデビューした山本さんは、1992年に『パイナップルの彼方』で一般文芸作家に転向して以来、長編と短編、どちらも執筆する作家だった。島清恋愛文学賞・中央公論文芸賞を受賞した『自転しながら公転する』、ドラマ化した『恋愛中毒』『あなたには帰る家がある』といった長編小説も有名で、傑作が多い。しかし直木賞を受賞した『プラナリア』や本作を読めば分かるとおり、短編小説もまた、絶品なのである。

 山本さんはうつ病治療のため執筆活動を休んだ時期があり、6年の歳月を挟み、復帰している(その様子はエッセイ『再婚生活─私のうつ闘病日記』で綴られている)。そのキャリアのなかで、とくに復帰後の短編・中編小説は、他に同じような小説を紹介してくれと訊ねられても困ってしまうような、山本さんにしか描けない手触りをもったものばかりなのだ。

2023.10.31(火)
文=三宅香帆(文筆家・書評家)