そうした状況下、お倉は伊藤博文のチカラを借りて養女・渡井つるの名義で営業許可を得て、明治33(1900)年4月横浜駅(現桜木町駅)に洋食レストラン「川村屋」を開業した。ここが「川村屋」の原点である。

 しかし、関東大震災で駅舎は焼失。太平洋戦争を経て戦後の高度経済成長期に至るまで不遇の時代が続いていた。よく廃業しなかったものである。

 昭和2(1927)年~昭和19(1944)年は渡井政次が2代目、昭和19年~昭和23(1948)年は渡井六郎が3代目、そして昭和23年~昭和54(1979)年は小野瀬幸広が4代目となった。

 4代目の昭和44(1969)年、「川村屋」はそばの販売を開始した。その前までは軽食以外の料理も提供するレストランとして駅構内で営業していた。当時駅そばが人気となり「川村屋」も駅そばビジネスに舵を切ったわけである。私が「川村屋」に初めて行ったのはその6年後の昭和50(1975)年頃だと記憶している。

 

 昭和54(1979)年11月~平成15(2003)年3月、小野瀬せんが5代目となった。青汁の販売を開始したのはその頃である。

 そして、昭和63(1988)年、笠原成元さんが川村屋で働き始め、廃業の危機を救った。同年、横浜博覧会が開催され、駅舎が移転。「川村屋」はレストランをやめ、立ち食いそばうどん専業となる。そして味の改良を行い、その手腕から徐々にお店の評判が上がっていった。

 平成2(1990)年には「川村屋」がJR改札口正面での位置で営業開始した。こちらには随分通った記憶がある。そして平成15(2003)年4月1日に6代目として笠原成元さんが就任した。

 平成16(2004)年に東急桜木町駅の廃止により、駅周辺の再構築が行われ、平成26(2014)年に現在の「CIAL桜木町」に移転した。そして、店舗も近代化し、「川村屋」がもっとも人気化した絶頂期を迎えることになった。「とり肉そば」は評判がよくうまかった。「天ぷらいわた」製の天ぷら達も名わき役として「川村屋」を支えてきた。大勢のお客さんが来るような人気店として認知されるようになっていった。

2023.10.12(木)
文=坂崎仁紀