猪木はプロレスをリアルファイトと思い込んでいた世界最強の柔道王のルスカには契約書通りにプロレスを履行させ、異国、東京での負け役を強いることに成功した。
次にモハメッド・アリとの世紀の一戦は、エキシビションと思って来日したアリ陣営に対し、猪木ひとりだけが最後までリアルファイトに固執した。ルールは試合当日まで紛糾し、リング上では「猪木―アリ状態」と呼ばれる退屈な膠着状態が続き、15Rを経て消化不良の引き分けに終わる。当時は世紀の大凡戦、茶番劇として世界で嘲笑され、しかも10億円を超える莫大な借金を背負う羽目に陥った。
韓国遠征では、プロレスのつもりで挑んできた格下の韓国のプロレス王、パク・ソンナンに、猪木が負け役になるという筋書きを拒否。掟破りのガチンコ(リアルファイト)を仕掛け、相手の目に指を入れるほどの死闘の末に勝利。結局、エースを木端微塵に潰された韓国プロレス界は崩壊に追い込まれてしまう。
観光気分で妻・倍賞美津子と訪れたパキスタン遠征では、逆に地元の英雄・ペールワンから急遽リアルファイトを挑まれることとなった。猪木は実力で大きく上回るにもかかわらず、再び相手の目に指を入れる反則技まで繰り出し、相手に噛みつかれると、ついに腕を脱臼させるという凄惨な試合の末に勝利を収めた――。
オランダと日本のプロレス界を結ぶ柔道界の猛者、ルスカ、ヘーシンク、ドールマンの三竦みの人間関係、日本の力道山時代を彷彿させる官民一体となった韓国プロレス史の変遷、まるでアラビアンナイトの怪人かのようなパキスタンのプロレス一族の流転など、現地取材はそれぞれが各国の比較文化論として一冊の本になるほど濃密だ。
共通するのは「自国開催の選手が勝つ」というプロレスの不文律を猪木が破棄したことだ。
本来、プロレスとは、肉体の強靭さや華麗な技を競い合いながらも、勝敗だけは予め決められている、ただし選ばれしプロフェッショナルによる命懸けのショービジネスなのだ。
2023.10.05(木)
文=水道橋博士(漫才師)