城山 その気配りも、いわゆる気配りがよくできるということを感じさせないのですよね。ごく自然になされる。

 永井 そうそう。彼には、実際、一種の陽気さがあり、これが救いですね。たとえば、没落してしまったかつてのライバルを呼び、一緒に宴会をやったりする。その人が遅れてくると皆相当でき上がっていて、ある男が、まあお楽に、お楽にと彼の上着を脱がせようとするんですね。この男は中位の役職の人で、これが彼のプライドを傷つけ、お前などに脱がせてもらうような俺じゃないと気色ばみ、一触即発の状態になる。すると道長がさっと出てきて、「私が脱がせてあげましょう」ととりなし、彼も機嫌を直す。

 また、その人がしょぼくれて行列の後の方を歩いていると、「自分の車にお乗りなさい」と乗せているのね。道長は総理大臣で、その人は中納言、まあ閣僚級でも下の方ですよ。

 このように、敵をつくらないというか、敵に人前で恥かしい思いをさせない、という気配りが道長にはありますね。

 城山 逆にいうと、道隆のようにナンバー1コースを走ってきた連中には、一種の驕(おご)りというか、自分で土俵を割っていってしまうところがありますね。

 永井 そうなんですよ。自信が裏目に出て失敗するケースはあるようですね。

 城山 勇み足というかね。でも、道長の「此の世をば……」というのは、自分の三人の娘が皇太后、女皇、中宮になったことがうれしいということだけのことで、それ以上の意味はなかったということですね。

 永井 ええ、それなのに威張り驕っているようにどうしていわれるのか、不思議なんですよ。今まで読まれている有名な歴史書には、あの歌は出てないんです。

 たとえば、道長に関して一番詳しい『栄華物語』にもこの歌は出ていないし、『大鏡』にもない。何に出てくるかというと『小右記(しょうゆうき)』。道長のライバルの藤原実資(さねすけ)という人が、道長の欠点を洗いざらい書き立てている、その中でとり上げられているんですね。道長は、そんなつもりで俺はいっていないと、今ごろ、冥土で泡食っているんではないかな。

2023.08.30(水)