秀吉なんかは、家康を切りたかったんでしょうね。
永井 切りたかったと思いますよ。
城山 でも、切ったら大変なことになる。切れる立場にはあるわけですね。
永井 あるわけです。結局、小牧・長久手の戦いでちょっとやってみて、これはだめだ、ということがわかった。
家康の立派なところは、関東への国替えを敢えてうけいれたことですね。三河は自分の育ったところだし、三河兵団こそが自分の守りだった。親身の親衛隊でしょう。しかも、尾張三河といえば、先進地帯ですからね。人間だけでなく土地にも愛着を持ちながら、関東という低開発の地域へ黙って行った。やはりナンバー2というのは、ある時期、がまんすることがなきゃいけないでしょうね。
城山 そうですね。
永井 しかし、結局、関東に本拠を置いたということが徳川政権の長持ちのコツだったんでしょう。
城山 ええ。だから個人的感情を殺して、集団として生き残るためには、三河を捨てて関東に行こうという、大きなソロバンがはじける人だったんですね。
永井 さっき城山さんが、選択肢とおっしゃったけど、人間には常にそれがあるんですね。瞬間瞬間で幾つかの選択肢の中から、決意して一つ選んでいく。そのときの一種の冷静な判断というのは、長い目で歴史を見ることができるとか、物事の移り変わりが見られるということ。周恩来などは、そこを実にうまくやってきたという感じがあります。
城山 バランス感覚があり、自己規制ができるんですよ。
永井 家康にしても、関東への国替えは、非常に大きな決断だったでしょうね。秀吉から「さあ、どうだ」と短刀をつきつけられ脅された感じですが、「わかりました」といったものだから、秀吉もついに家康を切れなかった。そういう感じですね。
家康という人は、ナンバー1になる芽は全然なかった人ですよね。それがだんだん上っていった。しかもナンバー2でいた時代が非常に長い。その間に、どうやったら自分の体制を長続きさせられるかを、ようく見極めていたんでしょうね。
城山 自分でシステム的につくり上げていく、培養していく。これがやっぱりほんとうのナンバー2なんでしょうね。
ながいみちこ●一九二五年東京生まれ。六五年「炎環」で直木賞。八二年「氷輪」で女流文学賞。八四年菊池寛賞。二〇二三年逝去、享年九十七。
しろやまさぶろう●一九二七年愛知生まれ。五七年「輸出」で文學界新人賞。五九年「総会屋錦城」で直木賞。九六年菊池寛賞。二〇〇七年逝去、享年七十九。
(この対談は、単行本[1985年11月刊]の巻末に付されていたものです。)
2023.08.30(水)