ここに書かれた交叉する二つの思いも、本当によくわかる。このときの小説家は書くことを選んだが、吉村氏には悩んだ末に書かないと決めた経験もきっとあったに違いない。
密偵の報告書の内容を作品に書いた小説家は、それを読んだ夫人から丁寧な手紙を受け取って安堵する。だがそのすぐあとで、夫人の気持ちをあれこれと推測し、やはり書くべきではなかったのではないかと後悔する。そしてその後も、心の揺れは長く続くのである。
揺れるということは誠実さの証しであり、ここに私が吉村作品を座右に置いて読み返す最大の理由がある。
歴史は人間と離れたところに存在するわけではなく、書く−書かれるという人間同士の関係は、作家にとって逃げてはならないテーマである。吉村氏はみずからの身を削りながら、出会った人たちと誠実に対峙してきたのだと思う。
吉村氏の作品と生き方から私が感じるのは「礼節」ということだ。事実への謙虚さ、人間への敬意、そして「書く」ということへの畏れ――それが、吉村作品が時代をこえて読み継がれている理由だと私は思っている。
2023.08.18(金)
文=梯 久美子(ノンフィクション作家)