御迷惑ならばお話をうかがえなくとも結構です、再び電話はいたしません。でも、もしも話してよいというお気持がおありでしたら、拙宅に電話して下さい――

 私には、それだけ言うのがやっとだった。受話器の中で、再び、はい、という声がした。私が、自宅の電話番号をつたえると、静かに受話器をおく音がきこえた。

 罪深いことをしてしまった、と私は思った。はい、という言葉のひびきが重苦しく胸にわだかまった。私は、未知の男を闇の奥底から引き出してしまったことを悔いた。

 赤の他人の人生に踏み込むことに逡巡するのは人として当然のことだ。それまで誰にも言わずにいたことを語らせること自体が暴力的であるし、さらにそれを文章にして世間に公表すれば、その人の人生を変えてしまうおそれがある。

 だが、ものを書く人間の中には、軽々とそれをやってしまう者もいる。自分には、重要な事実を世の中に知らせる大義がある、書く人間にはそれが許されていると思ってしまうのだ。あるいは、普段は人一倍慎重であっても、これぞという事実を摑みかけたとき、それまで自分に課してきたラインを踏み越えてしまうことがある。自分の筆でこのことを書きたいという欲に負けてしまうのだ。ノンフィクションを書いている私には、そのことが身にしみてわかる。

 だからこそ、吉村作品の節度と、その奥にある「事実を作品にすること」への畏れの感覚に深い敬意を抱くのだ。

「帰艦セズ」の橋爪は、戦時中に小樽の山中で死んだある機関兵の消息を追いかける。彼は橋爪と同じ逃亡兵だった。官給品である弁当箱を紛失してしまったことから、乗っていた巡洋艦に戻れず山中に隠れ住み、ひとり飢えて死んだのだった。

 橋爪は調査のため、男の遺族を探す。資料から六軒に絞り、順に電話をかけていくと、ある家の電話に出た老女が「時夫は私の悴(せがれ)ですが、生きているのですか?」と、叫ぶように言う。遺骨が戻らなかったため、どこかで生きているかもしれないという一縷(いちる)の望みを捨てられずにいたのだ。

2023.08.18(金)
文=梯 久美子(ノンフィクション作家)