吉村氏は証言を何より大事にしたが、それは事実を掘り起こすためだけではなく、人間心理の複雑さ、不可思議さを知るためでもあった。そのために細かいニュアンスを逃すまいとしたのである。

 実際の吉村氏の取材スタイルを垣間見ることができるのが、本書の表題作「帰艦セズ」である。この作品には、主人公に戦時中の話を聞きに来る小説家が登場するが、この人物のモデルは吉村氏自身である。

「あとがき」にあるように、「帰艦セズ」には先行する作品が存在する。一九七一(昭和四十六)年刊行の長編『逃亡』である。

 太平洋戦争末期の一九四四(昭和十九)年、茨城県の霞ヶ浦航空隊の整備兵が、アメリカのスパイだった日本人にそそのかされ、軍用機を炎上させて脱走。国内に潜伏し、終戦まで生き延びる。小説で望月という名を与えられているこの脱走兵は実在する人物で、『逃亡』は吉村氏が彼に直接取材した事実がもとになっている。

『逃亡』の十五年後に書かれたのが「帰艦セズ」で、こちらでは元逃亡兵の男は橋爪という名を与えられている。今風の言い方をすればスピンオフということになるのだろうか、小説家の取材に応えて過去を話したあとで彼が経験したことが描かれている。

「帰艦セズ」で橋爪に取材依頼の電話をかけてきた小説家は、ある人物から彼の過去を聞いたことを話し、「もしもそのことを話してくれる気があるならききたいが、迷惑なら二度と連絡はしない」と言う。逡巡の末に話す決心をした橋爪が家に来てほしいと電話をすると、翌日の夜、雨の中を訪ねてくるのである。

 翌日、というところにリアリティがある。橋爪は、軍用機を炎上させて逃亡するという、妻にさえ隠し通してきた過去を話す気になってくれたのだ。その決心が揺るがないうちに、すぐに訪ねるしかない。

 橋爪の家にやって来た小説家はアタッシェケースを携えている。新聞記者であれ小説家であれ、インタビューにきた者の鞄がアタッシェケースというのはいささか意外な感じがするが、それがかえって、この人物の持つ小説家らしからぬ雰囲気を読者に印象づける。

2023.08.18(金)
文=梯 久美子(ノンフィクション作家)