三石 プレッシャーはあったものの、それを跳ね返す若さと未来への明るい希望があったから、楽しんでいましたね。現場もキャストとスタッフの一体感がありました。
今のアニメ界のヒットとは少し違って、あくまで子ども向けアニメだったから、社会的に評価されるかどうかは前提ではなかったんです。社会現象化した時には驚きと共に、どこかピンと来ていない感じもあり、ただ毎週のアフレコに必死になっていました。
──『セーラームーン』シリーズを通して、演技への考え方は変わりましたか。
三石 演技が上達すると、それと共に失われるものもあるんです。新人の時のようながむしゃらで無駄な勢いはなくなります。声優1年目のときは一番下手でした。
自分の中で200%の大きな声を出すくらいしか能がなくて、でも、それがたまたま「月野うさぎ」というキャラクターにはまった。だから私からすると、みんなで作った船がどんどん大きくすばらしいものになって、それに乗せてもらったようなものです。
新人の時は画面を見て覚える力もすごかったですね。約25分くらいの尺の1話分、自分の役も、他の役の口パクも全部覚えられたので。
──すごい記憶力。
三石 ブレスや表情の変わるタイミングも全て台本に書き込み自分でわかるようにして、そこに合わせてお芝居を変えていく技術は『セーラームーン』で鍛えられましたね。
生き方が変わった「病との戦い」
──自伝では1993年1月に緊急入院手術で『セーラームーン』の収録に行けなかったことにも触れていました。
三石 順調に進んでいたものがストップして、急にぽんとレコードの針が飛んだような感覚でした。
──療養を経て「ペースを取り戻せた」と思えたのはどういったタイミングですか?
三石 体調は戻っても、見えている景色が前とはちょっと違ってました。治ってすぐに千葉の実家を出て、東京でひとり暮らしを始めました。何だろうな、運命に吸い寄せられたというか「ここにいちゃいけない」と感じて。
2023.06.26(月)
文=川俣綾加