のちに私は日本でも猟銃をもって鹿を追うようになったが、そこでもおなじ感覚をあじわった。

 藪や樹木のなかで獣を追う森の狩猟は、極地での氷上の狩猟とは方法論がまったくことなる。最初は木々のなかにひそむ鹿を見分けることができず、ピーという警戒音や、走って逃げる姿を見てはじめて鹿に気づくことがつづいた。でも当然のことながら、それでは狩りはうまくいかない。やがて私は、鹿に逃げられるのは、自分が森のなかで不自然な存在であるからだと考えるようになった。人間の動きは森では不自然だ。私も人間ではなく鹿にならないと接近できない。私は人間としての内実を消し、自らが鹿であることを意識し、鹿のように歩きながら餌場にむかった。不思議なことに、意識するだけで、まるで自分が透明な存在となり、肉体の穴に森の風が吹き抜けているような感覚となった。すぐそこに鹿がいる。気配を感じながら、小さな沢から岸の斜面をゆっくりとあがると、わずか二十メートル先に雌の群れがリラックスした状態で草を食んでいた。

 狩りに成功すること。それは自然の征服ではなく、自然からの祝福だ。私がこのとき知ったのは、そのことであった。なぜ祝福なのか。それは森のなかで自然な存在になれたとき、はじめて鹿は獲れるからである。森との調和がイコール鹿の死なのだ。

 森と一体化し、森にとって清浄な存在になれたとき、その森の生き物たる鹿が死ぬ。この残酷で矛盾している生の摂理は、理性を重視する近代的価値観では絶対に説明することができないだろう。でも現実として、私たちの命は、この矛盾と残酷さのうえで成りたっている。狩猟と肉食にともなう暴力性と残酷さは、私たちの命を作り出してくれている以上、どこかで神聖さに転換されなければならない。これはおそらく人類が最初に直面した思想上の課題だったはずだ。動物の命をいただくことは、人間にとって聖なる行為でなければならないのである。

 本書を読みながら一貫して考えたのは、肉を食べるという行為の背後にひろがる、このような、業とでもよびたくなるような人間と動物の関わりあいの深さであった。畜産業に携わる者でも、狩猟をおこなう者でも、その点についてはかわらない。

2023.04.06(木)
文=角幡 唯介(探検家・作家)