私の命は、いまここで死んだ獣の命により成りたっている――。
目の前で獲物が肉塊となり、その日の晩には自分の口にはこばれるわけだから、この事実には有無をいわさぬ迫力があった。狩りをすることで動物の生が死に転換し、その肉を食することで動物の死が自分の生に転換する。肉を介して命がぐるぐると循環する。
狩猟民社会では生と死の境界線はじつにあいまいだ。さきほど自分の肉体の一部となった海豹の生首を、犬が愛おしそうに口にくわえている。解体された母親の胎内からとりだされた海象の巨大な胎児が、無造作に、誰に顧みられることもなく砂浜にころがっている。そこでは善悪を超越した、生きることの残酷さとやさしさが同居していた。日本の都市生活では隠蔽された生きることの基本事項が、露骨に、でも静かに、平然と、日常のあちこちにころがっているのだった。
彼らの生活に影響をうけた私は、じきに彼らのように狩りをしながら犬橇で長い旅をするようになった。顔の知らないどこかの誰かが屠畜した豚や牛の肉を食べて旅をしても、その旅は、私という人間を構成する物理的主要成分たる私の肉にはたどりつかない。私は生きることを感じるために旅をしているのに、それではまったくもって不完全な気がした。生きる存在としての私の肉体。そして生きる営為としての旅。両者がダイレクトに結びつくためには、どうしても自分の手で狩りをしなければならなかった。
毎年、海豹や白熊を追いかけて氷原を流浪するうち、私はある重要な事実に気づくようになった。それは、狩りというものは、環境と調和しなければうまくいかないし、調和したうえでとれた獲物でないと狩りの真の喜びはえられない、ということである。
海豹には海豹の生態や習性がある。それを知ったうえで海豹の猟場に行き、その挙動から心理を推察しながら接近する。獲物や土地にたいする知識をたくわえ、それを読み解いたうえで狩りに成功したとき、その狩りには、たまたま出会って仕留めることができた単なる偶然の成功とは別次元の喜びがあった。
2023.04.06(木)
文=角幡 唯介(探検家・作家)