この記事の連載

  2016年元日に刊行した『週刊文春Woman』のパイロット版に掲載した一本の記事が、その後、専門家の間で注目を集めた。「未婚のうちに凍結保存しておいた卵子を使って出産した女性」、入江奈那子さん(仮名)が初めてメディアに登場したケースだったからだ。それから3年の後、女性が卵子凍結のいきさつや子どもの成長を語った。

»【卵子凍結のリアル①】仕事に介護、気が付くとアラフォー
»【卵子凍結のリアル②】不妊検査をしてくれない夫とは離婚
»【卵子凍結のリアル③】一度もセックスしていない“未完成婚”


 「ねえ、おかあさん、おかあさん」3歳8カ月になった娘のおしゃべりが止まりません。今日は保育園のみんなとお散歩中に赤い郵便車を見かけたそうです。「はがきやおてがみ集めるのよ」と得意げに教えてくれました。そして子育て中の方にはお馴染みと思いますが、『はたらくくるま』という歌を大きな声で歌い始めました。娘はこの歌のお陰で今では郵便車はもとより、カーキャリアやパネルバンの役割まで説明できるようになりました。

 最近では食事の後に腕まくりをし、率先してお皿やお茶碗を洗ってくれます。踏み台に乗ってようやくシンクに手が届くという具合ですからヒヤヒヤして見ていると、実に上手に洗っています。

 生まれてからほとんど風邪も引かず、日に日に成長している娘ですが、生まれて間もないころには、ひと騒動ありました。そして無事に育つのかどうかと危ぶむ声さえあったのです。

 2015年秋、関西の山里に暮らす私たちを東京から一人の女性が訪ねてきました。これが騒動の始まりです。私の妊娠・出産の体験談を聴きにいらしたのですが、このときの、私にしてみればとりとめのないおしゃべりが、『週刊文春Woman』に掲載されました。タイトルは「卵子凍結する女たち」です。

 私の妊娠・出産は、人の手によって卵子に精子注入する“顕微授精”という体外受精によるものですが、その卵子は私が未婚のうちに採取して3年間凍結保存しておいたものだったのです。

 するとまもなく、その『週刊文春Woman』を携えた新聞記者がやってきました。そして──「凍結卵子 健康女性出産、大阪の44歳 国内初確認」私の出産が全国紙1面のトップニュースになったのです。

“今風の女性像”でなぜ括るの?

 (国内初? 私が?) 戸惑っている間もなく、テレビの取材や撮影、出演の依頼で電話が鳴りっ放しになり、私は右往左往。混乱してしまって、赤ちゃんだった娘を抱えると実家に逃げ帰ってしまいました。

 それから連日、テレビやネットのニュース、情報番組でドクターや評論家の方たちが私の出産についてコメントしていましたが、それを見聞きしているうちに私は違和感を覚えるようになっていました。

 くだんの全国紙もそうですが、メディアが「卵子の凍結」を話題にする際は、未婚女性が将来出産するために卵子を凍結保存することを日本産科婦人科学会が「推奨しない」としていること、それでも女性たちが卵子凍結する背景には女性の社会進出に伴う晩婚化・晩産化があると解説が付け加えられます。

 若いうちは結婚・出産より仕事のキャリアアップを優先させて、医学界が反対しているにもかかわらず凍結保存しておいた卵子で出産する─そんな“今風の女性像”という文脈で「卵子の凍結」は語られるのです。高齢出産のリスクを理解していない、女性のワガママだ、セレブ気取りだと批判されることもあります。

 とんでもない。私は長く看護師をしていましたし、自分でも体験しているからわかるのですが、そもそも卵子の凍結はそんな気軽にできるようなことではありません。男性の精子の採取は自分で容器に射精するだけですが、女性は卵子を体外に出すことなんてできないから採卵手術が必要です。しかも術前には、何日にもわたって決まった時間に投薬や注射をしなければなりません。健康な女性の場合、これらは医療として認められないので保険が適用されず、1回の凍結につき30万~50万円の費用がかかります。

 高齢出産のリスクについては、20代のうちに結婚して子どもを産むことが望ましいという生物学上の事実を女性の誰もが嫌というほどわかっています。ところが出会いがなかったり、結婚できない事情があったりして、でもいつかはお母さんになりたいという思いがあるから、肉体的負担も金銭的負担も覚悟のうえで卵子の凍結保存を決断するのです。

 私が知る限り、凍結保存した人にセレブリティなんていません。たとえば10年前に私に日本でも卵子を凍結保存できることを教えてくれた人は、苦学して助産師になった人です。彼女は看護学校の同期生で、彼女は助産師に、私は看護師にと道は分かれましたが、ときどき会っては励まし合う仲でした。彼女はこのとき既に卵子を凍結保存していましたが、その費用の捻出のためにはずいぶん切り詰めた生活をしたそうです。

 私も看護師として、少しでも若いうちに卵子を採取して凍結保存し、将来その卵子を体外受精に使用すれば妊娠する可能性が高くなるということは知っていました。それが日本でできるのであれば私もやっておこうと即、決心したのです。

 私は彼女以上に子どものいる温かい家庭への憧れがありました。そして彼女以上に貧しさを知っていました。

 私は昭和46年、大阪に生まれました。父は私が10歳のときに自宅で吐血して死にました。父はアルコール依存症だったのです。31歳で寡婦となった母は、近所の工場で工員として働くだけでなく、ビルの清掃、皿洗いなど、できる仕事はいくつも掛け持ちして私と弟を育て上げました。朝から晩まで働き詰めでしたから、家族揃ってご飯を食べることなどありません。母には申し訳ない気がして言わなかったのですが、私は家族の団らんというものに強く憧れました。

 私たちが住んでいたのは大規模な公営団地です。小さな和室と板の間の二間きりで、色褪せた壁、毛羽立った畳、もう映らないテレビ……私はこのような家の育ちであることを恥じたことはありませんが、恋人になりかけた人に「あの実家は勘弁してほしい」とはっきり言われたことがあります。こんなわが家の窮状を見ても驚かず、父がアル中で死んだことを話しても気にも留めない。そんな優しい人からプロポーズされたことがありましたが、その人のお母さんから「団地に住んでいるくせに」となじられ、結婚には至りませんでした。

 もともと私の夢は幼稚園か保育園の先生になることでした。子どものころから自分より小さい子どもたちの面倒を看ることが好きだったのです。高校生になると幼稚園教諭免許や保母(現在は保育士)資格が取得できる大学を探したのですが、学費や入学金が高いし、ピアノも習わなければいけないと知って断念するしかありませんでした。

 やむなく、一浪して学費が安い公立の公衆衛生専門学校に進みました。浪人したのは勉強のためではなく、昼も夜もアルバイトをして受験費用と当座の学費を貯めるためです。入学後も毎日、講義が終わるとビアホールで夜までウェイトレス。楽ではありませんでしたが、働き詰めだった母のことを思えば弱音なんか吐いていられません。何とか落第もせず、看護師の国家試験にも合格することができました。さらに、希望どおりこども病院への就職も決まりました。

2023.03.23(木)
文=小峰敦子