まもなく80歳を迎えようという今も日々、厨房に立ち続け、菓子職人としてフランス菓子を作り続ける、東京・尾山台のパティスリー「オーボンヴュータン」オーナーシェフの河田勝彦さん。

 誰よりもエネルギッシュに菓子と向き合うその姿は、言葉を発することも忘れて思わず見入ってしまう職人としての美しさと力強さにあふれています。なぜそれほどまでにフランス菓子に情熱を注ぎ、厨房に立ち続けることができるのか。その思いを語っていただきました。


今もはっきりと思い出す、パリの空と香り

 僕が菓子作りを続けられる理由、それは、パリに着いたときの感動が忘れられないからだと思います。

 横浜からソビエト連邦(現ロシア)のナホトカへ船で渡って、そこからシベリア鉄道で約1週間かけてモスクワへ。そしてようやく飛行機に乗り、パリに着いたのが1967年6月のことでした。

 東京で感じたことのない空の青さと匂いに感激してね。フルーツの香りも強かったし、お菓子を食べれば甘さといい、バターのおいしさといい、ガツンと効かせたお酒の香りといい、それまでの僕の人生にはないもので、もうたまらなかったです。ババなんて、箱に詰める前にお酒をドバーッとかけてくれるんですよ。だから食べると顔が真っ赤になってしまうんですけれど、それが旨くて。

 だから今でも僕は、ババにカスタードクリームをはさんだ「アリ・ババ」をつくるときは、ラム酒を思い切り効かせます。生地にしみこませるシロップだけではなくて、クリームにもしっかりと。これを変えるつもりはありません。

 ババだけでなく、パリに着いてすぐの頃はとにかくお菓子を食べまくりましたね。何もかもがカルチャーショックで、おいしくて、感激の連続でした。

 それから約8年フランスにいたわけですけれど、もちろんすべてが順調だったわけではなく、旧態依然とした当時のパリのお菓子に疑問を感じたり、五月革命でパティシエの職を失って自転車で放浪したり、フランス人の価値観や働き方になじめなくて悩み狂ったり、いろんなことがありました。でも、思い返すとすべてひっくるめて楽しかったし、結局はパリに着いた頃のあの感動に回帰してしまう。それくらい強い衝撃だったんです。

 まあ、戦後の時代を生きてきた僕らの世代というのは、全身全霊でぶつかっていく強さや、自分で決めた道を貫く意地を持っていますからね。日本で学んだことはすべてゼロにして、フランス菓子やフランスの文化、生活にどっぷり浸り、すべてのことに全力で向き合って、駆け抜けました。だからこそ、「おれはここでやり切った! さあ、今度は日本で自分を表現するぞ」と思って、何の後悔も未練もなくフランスを後にし、日本へ帰ってくることができた。「よくやったな」と、自分で自分を誉めてやりますよ。

2023.02.11(土)
文=瀬戸理恵子
写真=合田昌弘