ところで本書『本意に非ず』には、対となるべき(と勝手に思っている)著作がある。タイトルもまさに対照的な、上田秀人著『本懐』(光文社)である。

 こちらで扱われるテーマは、武士の切腹。六話の短編で成り立っており、登場人物は大石内蔵助良雄、織田信長、狩野融川、堀長門守直虎、西郷隆盛、今川義元となっている。

 勘のいい方ならすでに、「あれ、おかしくない?」と、首を傾げていることだろう。

 旧主の敵討ちを果たした大石内蔵助はともかく、他の人たちは皆、志半ばか夢破れて死んでない? いったいどこが「本懐」なのよ。

 少なくとも、私はそう思った。そして実際に読んでみると、本作の解釈では、大石内蔵助ですら本懐とはほど遠い葛藤を抱えて最期を迎えていたのである。

 ああ、なんて逆説的で、皮肉なタイトル――。

「せやから僕は、思いどおりにいかへんかった人間が好きなんやって」と、にこにこしている上田先生の顔が思い浮かぶ。

 武士にとっては名誉の死とされる、切腹。しかし当人にとっては、「本意ではなかった」と歯噛みしながら迎える死とどこが違うのか。いいや、腹を切らされるような状況がすでに、本意であるはずがないのだ。

 乱世であれ、泰平とされた江戸の世であれ、人権意識が高まりつつある現代であっても、けっきょくのところ人というのは己の抱えるしがらみの数だけ、本意でない選択を迫られる。親子、兄弟姉妹、夫婦や友人関係ですらしがらみの一つなのだから、すべてを断ち切って生きるのは、山奥に隠遁して仙人でも目指さないかぎり無理である。なにも考えずに流されていければ楽なのかもしれないが、理想や志が高ければそれだけ、現実との乖離に苦しむことになってしまう。

 本意とは外れてしまった男たちの、生き様と死。それを描き出す上田先生の筆は、簡潔でありながらなぜか温かい。「人とはそういうもんや」という、優しい眼差しすら感じられる。そこにはまさに、「本意ではなかったり、後悔を残した人生」を肯定的にとらえるという姿勢が表れているからなのだろう。

2022.12.28(水)
文=坂井 希久子(作家)