ご主人様は、店内では基本ニックネームで呼ばれる。その中にケビンさんという人がいた。日雇いで警備員の仕事をしているため、「けいびいん」が短縮されて「ケビン」になったらしい(日本人である)。ケビンさんは顔や手が真っ黒に日焼けしていて、数日洗ってない風なボサボサした黒髪で、前歯が数本なかった。席につくといつも、いかに金がないか、彼女ができないか、仕事がつらいかみたいなことを一人でずっと話している。まあでもそれだけで特に害はなかったので、メイドたちはふんふんと適当に話を合わせてやり過ごしていた。

 ある日、シフトが終わったあと近くで買い物をして、店の近くを通りかかった私は、店から出てきたケビンさんとばったり会ってしまった。冬の夜、遅めの時間だったので、ちょうど周囲にあまり人気がない。外界に放たれたケビンさんは、店内で見るよりもずっと「ヤバい人」感が増していた。気づかないふりをして逃げたかったが、もうばっちり目があってしまった。ケビンさんは「おう、おつかれ」と言い、おもむろに店の前にあった自動販売機でコーヒーと紅茶を買った。そして「どっちがいい?」と言われ硬直している私に、無言で温かい紅茶を投げる。このままどこかに連れて行かれるかもしれない、そうでなくても店外デートに誘われてしまうのでは……と警戒しまくっていると、「いやあ、今日も楽しかったよ。ここにいるときだけが楽しいな、人生」と、ケビンさんは歯のない笑顔を見せて、そのまま駅に向かって去っていった。真冬の夜、私の手の中で、ケビンさんが買ってくれた150円のペットボトルだけが温かい。多分、私に不用意に触れないように、投げて渡してくれたんだろう。ケビンさんがこのお店に来るために、一生懸命働いて、生活を切り詰めていたことを知ったのは、もっと後のことだった。

 2年近く在籍し、私もベテラン枠に入ってきた頃。長時間のシフトを終えて疲れ切った私たちは、たまのご褒美として激安焼肉店「安安」で、薄く伸ばしたゴムのような牛タンを食べていた。らいとさんが半ば無理やり誘ったおかげで、今日は珍しくいちごさんも一緒だ。らいとさんはいちごさんに「いちごちゃんさあ、なんでご主人様には超優しいのに、女に対してあんなキツいの?」と右ストレートパンチのような質問を投げかける。いちごさんは「だって……怖いんだもん」と、心細そうに答え、私とらいとさんは爆笑した。店であんなに恐れられていたいちごさんも、私たちと同じ、ただの生きづらい一人の女の子だったということがわかったから。

 その日も皆で人生について話していて、大学3年になろうとしていた私は、そろそろ就職活動のためにバイトを辞めることを考え始めていた。「大学出たら、何の仕事しようかなあ」と言う私に、「お前なら何でもできるよ。絶対に、絶対にそうだから」らいとさんは真っ直ぐ眼を見て言った。いちごさんも「そうだよね。アユミちゃんなら、きっとどんな仕事だってできる」と、恥ずかしいのかこちらを向かず、前を向いたままで同調してくれた。

 後から気づいたが、メイドたちは多くが高卒か専門学校卒のフリーターで、大学生は少なかった。らいとさんもいちごさんも同様に、フリーターとしていくつかの仕事を掛け持ちして働いていた。私より大人だった2人は、自分よりも選択肢が開かれている大学生の私の無邪気な話題に、本当は何を思ったんだろう。

 あの頃の私は、安安以外の焼肉の味も、人の言葉は必ずしも本心ではないということも、あるいは世界のすべてについて、何も何も知らなかった。自分が何も知らないということすら、わりと最近になってから気づいた。それでもあの日2人がくれた「何でもできるよ」は、ハリボテじゃない本当の気持ちだったと思うのだ。

 ちなみにらいとさんといちごさんは、今やそれぞれ3人の子どもを持つママになった。しかも2人とも、当時の常連客の一人と結婚した。叶う夢って、意外とあるもんだなと思った。

※特定を避けるため人物名、エピソードなどは一部変更を加えています

上坂あゆ美(うえさか・あゆみ)

1991年、静岡県生まれ。東京都在住。2017年から短歌をつくり始める。2022年2月に第一歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)を刊行。銭湯、漫画、ファミレスが好き。
Twitter:@aymusk

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編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載です。

(タイトルイラスト=STOMACHACHE.)

2022.11.14(月)
文=上坂あゆ美