北条朝時がラブレターを送った相手は、将軍源実朝の御台所つまり妻に仕える、京都から鎌倉に下ってきた女性でした。この女性は朝時のラブレターによる求愛に応じなかったのですが、これに対して、朝時は深夜にこの女性の部屋に入り「誘し出す」つまり誘拐してしまいます。この結果、朝時は実朝から叱責され、父親からも親子の縁を切られて駿河国(現在の静岡県東部)富士郡に謹慎することとなりました。
現在でも誘拐婚の風習が存在する国がありますが、この時代の日本にも女性をさらって無理やり妻とする行為がありました。これは「女を盗む」あるいは「女捕」と呼ばれており、『御成敗式目』では禁止されていますが、追認あるいは既成事実となってしまう場合もありました。
鎌倉武士の結婚は、家と家との結びつきを構築または強化するために行われ、かなり若い年齢で行われました。北条泰時の結婚は20歳の時ですが、12歳で元服した際に、三浦義澄の孫娘と結婚することが源頼朝によって決められていました。北条時頼の結婚は13歳、北条時宗の結婚は11歳の時です。
さきほど見たように、結婚して子供もいる状態でラブレターが送られていましたが、恋よりも先に結婚が行われていたのが、多くの鎌倉武士のあり方だったようです。
ただ、このような結婚からも愛情が生れました。北条朝直は政所執事の伊賀光宗の娘を妻としていました。光宗は1224(貞応三)年閏7月に失脚することから、朝直が19歳のこの年までには結婚していたと考えられます。
朝直は光宗の娘をたいそう愛しており、光宗の失脚後、執権北条泰時から娘婿に望まれ、両親からも説得されましたがこれを固辞し、離別を悲しんで出家の準備も始めたほどでした。結局、朝直は泰時の娘と結婚しますが離婚し、泰時の娘は別の北条一族と再婚しました。
幕府でも介入できない、親の強い権力
北条朝直の結婚の例からもうかがえるように、この時代の子に対する親の権力はとても強いものでした。
親はその所領を子供たちに自由に配分・譲与することができ、しかも、一旦、譲与した所領を取り返す、「悔い返し」という行為も認められていました。「悔い返し」は、子供が譲与された所領が、幕府によって安堵(保障)され、その領有を認める幕府の文書が発給された後であっても、行うことができました。
この「悔い返し」の権利は『御成敗式目』にも定められており、幕府であっても、親による所領の配分・譲与に介入することはできなかったのです。
「やぐらの上から幕府方の武士を射殺し…」「父兄にも勝る弓の名手で」巴御前にも引けをとらない? 実在した“無敵の女武者” へ続く
2022.10.30(日)
文=西田友広