現在であれば中学生くらいの年齢で「大人」になっていたわけです。

 この年齢になると、武士として武芸の練習も本格的に始まりました。源頼朝の跡を継いで2代目の将軍となった頼家が、初めて小笠懸(近距離の的を射る笠懸)を行ったのは9歳の時でした。

 また、工藤景光という甲斐国の武士は、自分は11歳の時から狩りを行ってきたが、これまで自分の左側(弓を持つ腕の方向で、矢を射やすい)の獲物を逃したことはない、と言っています。狩りは、馬に乗って弓を射る練習でもありました。

 

 武士が「大人」になるということは、合戦に参加するということでもありました。

 源頼朝の挙兵直後、当時は平氏方であった武蔵国の武士である畠山重忠が源氏方の三浦氏を攻撃した際、重忠は17歳でした。また、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした際、藤原氏方として討死した下須房秀方は13歳でした。秀方は、味方の敗走後も一人留まり、若年にもかかわらず力が強く、秀方を討った武士と長時間、対等に戦ったということです。

 15歳というのも区切りとなる年齢でした。

 筑前国の武士である平清光が亡くなった時、清光が持っていた長淵荘という荘園の地頭職について、清光の子の吉鶴丸が15歳になるまでは伯父の時行が支配し、16歳になって以降は時行は関与しないということが取り決められています。

 また、15歳以前の子供は処罰しないという慣例もありました。

源頼朝、北条義時らが送った「ラブレター」

 鎌倉武士も恋をしました。恋のきっかけはさまざまと思われますが、恋の始まりに重要な役割を果たしたのは「艶書」つまりラブレターでした。

『吾妻鏡』には源頼朝・北条義時・安田義資・北条朝時らが女性にラブレターを送ったことが記されています。なお、この時代のラブレターには使用する紙や書き方・包み方にも一定の作法があり、和歌に一言添える程度がよいとされていたようです。

 ここで気になるのはラブレターを送った時の年齢で、頼朝は36歳、義時は30歳、義資は父の年齢からすると40歳前後、朝時は19歳でした。また、頼朝・義時は既に結婚して子供もおり、義資も同様と考えられます。朝時についてははっきりしませんが、次男の誕生した年から考えると既に結婚していた可能性があります。正妻のほかに側室をもつことも多かった当時は、結婚後の恋もあったのです。

2022.10.30(日)
文=西田友広