「贅沢な時間がゆったりと流れる映画ですね」と感想を伝えると、その映画を手がけた監督はこう答えた。「一見『何も起きていない』と思われる時間でしか、表現できないものがあると思うんですよ」と。まるで作品のタイトルのように、取材が行われる部屋の窓辺に、静かに腰かけながら。

 今泉力哉監督の新作映画『窓辺にて』は、稲垣吾郎演じる主人公・市川茂巳が、自分を取り巻く世界をゆっくりと散歩し、深呼吸し、思案をめぐらせていくような映画だ。

 かつて小説を一冊だけ出し、いまはフリーライターをしている市川。妻である編集者・紗衣(中村ゆり)の不倫を知りつつも、何の感情も沸いてこないことに自らショックを受け、誰にも相談できず悩んでいる。そんなある日、文学賞の取材で知り合った高校生作家・久保留亜(玉城ティナ)の小説に深く惹かれ、モデルに会いにいく――。

 若葉竜也、志田未来ら、充実のキャストやスタッフと共に、今泉監督自身が手がけたオリジナル脚本をかたちにした『窓辺にて』。その劇中にも印象的に描かれる、窓から差しこむ柔らかな光のように、私たちの日々の感触をすこしだけ変える作品だ。そしてまたこの映画は、人生において何かを「手放す」ということも、ポジティブな意味を持つ営みへと反転させていく。

 『愛がなんだ』『街の上で』など話題作を世に送り出してきた監督は現場で何を見つめ、何を手放しているのだろう。一緒に窓辺に座って聞いてみた。

稲垣さんは「自分が知っている感覚です」と言ってくれた

――主人公の市川は優しそうで、実際に人当たりもいいのに、自身の間近で起こった出来事にはうまく感情が動かない人物です。稲垣さんと一緒に、どのようにキャラクターを造形していったのですか。

 市川という人物の感じをどう出そうかと、細かく根詰めて話し合うようなことは、実はなかったもしれないです。衣装合わせで初めてお会いしたときに、脚本を読んだ感想をうかがったんですが、稲垣さんは「自分が知っている感覚です」と言ってくださったんですね。「僕も、こんな状況ならもっと怒っていいのにとか、感情を出していいのに、と言われることがあるんですよ」って。

――感情って、いつもストレートに出るとは限らないですよね。

 市川のように、妻が不倫しているときに怒ることができなければ、じゃあその人を愛していないということになるのかというと、必ずしもそうじゃないと思うんです。

 私自身、たとえば手がけた映画がヒットしたとき、喜んではいるんですけど、「やったー!」と感情が表に出るタイプじゃないんですよ(笑)。人それぞれに、恵まれた場にいるとむしろ罪悪感を抱くようなことだってあるでしょうし、誰かの活躍を喜びながら妬んでしまうことだってある。

――人の感情には、いろんなグラデーションがあります。

 今年の夏に公開された『わたしは最悪。』という映画(デンマークのヨアキム・トリアー監督作)を観ていたら、主人公に対して恋人が話すとき、口にする言葉や表情がその直前に言った言葉を裏切っていってしまう、というシーンがありました。言葉と感情もずれていて、久しぶりにこうした映画を見たなあと思いましたね。

 『窓辺にて』もまた、相反するふたつの感情や、ふたつの視点を一緒に描くような映画で、テーマのひとつである「手放す」というのが、まさに両面的な意味をもつものなんですよ。

「手放す」ことは次に進むための営みでもある

――高校生作家・留亜の文学賞受賞作のなかで、自らの手にあるものをあっさりと「手放す」人物が描かれている。市川は興味を抱いて、そのモデルに会おうとします。

 何かを「手に入れる」とか、「続ける」ということのほうがいいことだと思われがちですが、実は「手放す」であるとか、「辞める」「あきらめる」ということも同じように労力を要る場合がありますし、次に進むための営みだというときもあると思うんです。

 市川もまた、小説を一作だけ世に出して以降書いていないわけですが、書き続けるほうがいいとは、なかなか一概には言えない。私は1981年2月生まれの41歳で、それこそ昨年引退した野球選手の松坂(大輔)世代ということもあって。彼だって、辞めるか続けるか、誰よりも本人が一番悩んでいたと思うんですよね。そう考えると「手放す」ということは一面的にはとらえられないよなあと感じるんです。

2022.11.04(金)
文=宮田文久
撮影=平松市聖