朝ドラ好きの雪衣が、テレビから獲得してきた教養
それは単なる朝ドラスタッフの自画自賛ではない。記念すべき第1作の朝ドラ『娘と私』を見つめる雪衣は、現実のるいに背を向けてドラマの中の美談に夢中になる女性として、ある種の痛烈なアイロニーをこめて描かれている。だがその雪衣は、第98話で第1作から欠かさずすべての連続テレビ小説を見てきたことを錠一郎に語る。そして、107話ではるいに過去を謝罪し、病室で連続テレビ小説を見る日々を送って生涯を終える。
雪衣は安子やるいやひなたのように、ラジオ英会話で英語を学ぶことはついになかった。だが物語は明らかに、3世代ヒロインにとっての英語の位置に、雪衣にとっての連続テレビ小説を配置している。それは安子と同じ世代の主婦である雪衣がテレビから学び、獲得してきたささやかな教養であり、言語なのだ。
母を失ったるいが、ラジオから流れる英語講座を聴き続けてきたように、雪衣にとって連続テレビ小説が自分の内面に語彙を与える人生の伴走者だったことが描かれ、雪衣は自分の内面を言語化し、るいに謝罪する。「みんな間違うんです。みんな」るいはそう答え、その謝罪を受け入れる。
「女が見るような…」かつて朝ドラは一段低く見られていた
優れた批評がクリエイティブな側面を持つように、優れた創作物もまた批評的な側面を持つ。『カムカムエヴリバディ』は表向きは毎日15分のラジオ英会話をメインテーマに据えながら、同時に「日本の女性にとって連続テレビ小説とはどのような存在であり続けたのか」という朝ドラ論を物語の裏面で描いている。本当はそれは順序が逆で、ラジオ英会話というテーマが朝ドラの隠喩として選ばれたのではないかと思うほどだ。
『カムカムエヴリバディ』に登場する人々は、決して先進的な、世に名を残す人々ではない。それはラジオ英会話や朝の連続テレビ小説が、そういう人々のためのメディアだからだ。
今でこそ渡辺あやの『カーネーション』や宮藤官九郎の『あまちゃん』そして藤本有紀の『ちりとてちん』といった名作の完成度によって社会的評価が高まった朝ドラだが、映画や社会派ドラマに比べて「女が見るようなドラマ」として一段低く見られた時期はあった。
2022.04.13(水)
文=CDB