壮大なスケールと幻想的な描写などから、「実写化困難」とも囁かれていた彩瀬まるによる同名原作を映画化した『やがて海へと届く』。圧倒的な映像美やアニメーションとのコラボなどによって、“新たなる再生の物語”を誕生させた中川龍太郎監督のキャリアを振り返る【前編】。

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●昭和の日本映画、日本文学に対する憧れ

――幼い頃の夢を教えてください。

 実家で『男はつらいよ』や『砂の器』といった古い日本映画を観る環境があり、そういう作品やジブリの作品を観ていくことで、映画好きになっていきました。小学校の卒業アルバムには、「将来の夢は映画監督」と書いたことを覚えています。とはいえ、それを現実的に考えていたかというと、そうではなかったと思います。その一方で、父の本棚で見つけた、いろんな小説を読むのも好きでした。

――具体的に、どんな小説を読まれていましたか?

 たとえば、三島由紀夫の『金閣寺』と横溝正史の『八つ墓村』。三島の文学と横溝のミステリーを、かなり近いレベルで感じることができたんです。映画にしろ、小説にしろ、とにかく僕が心惹かれたのは「昭和」という存在。現代ではなく、昭和の日本映画や日本文学に対する憧れみたいなものが、すべてのベースになっているといえます。

――その後、詩人として活動される経緯を教えてください。

 僕としては、特に詩人になりたかったわけでなく、小説家を目指して小説を書き始めたら、長くて書ききれなかっただけなんです(笑)。それで、小説の断片のような詩を、やなせたかしさんが責任編集をされていた「詩とファンタジー」という雑誌に投稿するようになり、ときどき掲載してもらったりもしました。

●友人の影響から映画制作を開始

――高校在学中の2007年、「詩集 雪に至る都」を出版する経緯は?

 言葉になりえない感情みたいなものを言葉で表現するのが詩だと思うんですが、それを表現するのが、とても楽しくて……。それで雑誌や新聞に掲載されたものが、いくつか溜まってきたこともあり、まとめて作品集として残しておきたいと思うようになったんです。それで、おばあちゃんにお金を借りて、自主出版として出すことにしました。

――そして、慶應義塾大学文学部に進学後、独学で映画制作を開始されます。そのきっかけは?

 大学時代に知り合った友人の影響です。『やがて海へと届く』のすみれのモチーフにもなっているんですが、彼がヨーロッパ映画など、アート系の映画館で上映されている作品をたくさん僕に教えてくれました。それによって、一気に世界が広がった気がしましたし、映画を作ってみようと思いました。

 特にサークルに入っていたわけではないので、自分で人を集めるところから始めました。詩は一人で書けるけれど、やはり孤独が伴うわけで、そこに息詰まっていたこともあり、映画制作という共同作業が、とても新鮮に感じました。

――そうやって、自主映画として撮られた短編『Calling』は、13年のボストン国際映画祭で最優秀撮影賞を受賞。同年には、『雨粒の小さな歴史』がニューヨーク市国際映画祭に入選されます。

 僕が海外の映画祭に応募したのではなく、「Tokyo New Cinema」という制作会社の社長が、当時アメリカの大学にいて、彼が僕の映画をエントリーしてくれたんです。その後、日本に戻ってきた彼が製作費を集めてくれて、その次の『Plastic Love Story』を一緒に作ることになりました。僕にとって、彼は恩人といえる存在ですね。

2022.03.25(金)
文=くれい響
写真=平松市聖